久々に山下敦弘監督らしい映画ではないか。でも、こんなにも貧乏くさい映画を、全国東映系で一斉公開するなんて、なんだかとても勇気ある行為だ。いくら前田敦子が出ていてもそんなものほとんどなんの効果もない。1986年なんていう時代設定も、今の観客にしてみれば何の興味も惹かないだろう。「なに、それ、」って感じだ。もちろん芥川賞受賞作品の映画化なんて言うのも、まるで意味をなさない。大体、日雇い労働者を主人公にして、彼らの日常を追いかける映画なんて、今時ありえない。プロレタリア文学じゃないのだから、もう少しなんとかしてよ、と原作を読んだときも思った。だから、こんな小説誰も読まないだろう、と思ったが、映画なら、なおさらだ。このタイトルも商業映画の域を超えている。
ということで、公開3日目の休日の午後なのに、劇場は予想通りがらがらだった。全編侘しくて、小便臭くて、まるで70年代の日本映画を見ているような感じだった。80年代を描いているくせに、もっとしみったれていて臭いのだ。そして、それがとても自然なのである。なんだか生き生きしている。これは往年の神代辰巳の映画のようなぐだぐだ感だ。筋金入りの映画である。さすが、山下監督だ。エアポケットにでも、陥った気分になる。
主人公の貫多を演じる森山未来も自然体でこの世界の住人になっている。どこにも出口はない。ただいつまでも同じ場所でぐるぐる回っているだけだ。気持ちのいい映画ではないことは最初から分かっていたが、ここまで何もない映画をちゃんと作れるなんて、すごい。普通ならもう少しカタルシスを用意しなければ映画にならない、とプロデューサーからクレームを付けられるところではないか。なのに、一切妥協なく、このどうしようもない男のくだらない生活をどこまでも追いかける。
全編に流れる『線路は続くよ、どこまでも』のやる気のない歌声が、この映画の貴重低音をなす。だからなんなのだ、と言われると、いや、別になんでもないです、と、言うしかない。でも、なんとも懐かしい映画だった。ただ最初にも書いたが、こんな映画に誰も来ないのも、現実だろう。そこまで、みんな暇ではないし、せっかく劇場まで行ってこれはないやろ、と普通の人なら思う。僕等は普通じゃないから、とても楽しんでしまったのだけど。
ということで、公開3日目の休日の午後なのに、劇場は予想通りがらがらだった。全編侘しくて、小便臭くて、まるで70年代の日本映画を見ているような感じだった。80年代を描いているくせに、もっとしみったれていて臭いのだ。そして、それがとても自然なのである。なんだか生き生きしている。これは往年の神代辰巳の映画のようなぐだぐだ感だ。筋金入りの映画である。さすが、山下監督だ。エアポケットにでも、陥った気分になる。
主人公の貫多を演じる森山未来も自然体でこの世界の住人になっている。どこにも出口はない。ただいつまでも同じ場所でぐるぐる回っているだけだ。気持ちのいい映画ではないことは最初から分かっていたが、ここまで何もない映画をちゃんと作れるなんて、すごい。普通ならもう少しカタルシスを用意しなければ映画にならない、とプロデューサーからクレームを付けられるところではないか。なのに、一切妥協なく、このどうしようもない男のくだらない生活をどこまでも追いかける。
全編に流れる『線路は続くよ、どこまでも』のやる気のない歌声が、この映画の貴重低音をなす。だからなんなのだ、と言われると、いや、別になんでもないです、と、言うしかない。でも、なんとも懐かしい映画だった。ただ最初にも書いたが、こんな映画に誰も来ないのも、現実だろう。そこまで、みんな暇ではないし、せっかく劇場まで行ってこれはないやろ、と普通の人なら思う。僕等は普通じゃないから、とても楽しんでしまったのだけど。