朗読劇と銘打つがほとんど芝居。簡単なリーディングスタイルを取りつつ、実は緻密な演劇のテイストを持つ。ドキュメンタリータッチを標榜し、ラフなスタイルで大竹野正典の評伝を作り上げた。とてもよく出来ている。大竹野正典没後10年企画の中で異彩を放つ。当然オフィスコットーネによる『埒もなく汚れなく』とは違う視点から大竹野を描く。大竹野の身内である小栗一紅による台本、演出は、事実をベースにしながらも、自分の知っている大竹野という存在を自由に描いており、風通しのいい作品に仕上がった。身内受けではなく、客観性のある(故人のことを知らない人にとっても優しい)普遍性を指し示すことに成功している。
主人公である小栗さん自身の存在を隠したまま進行するドラマ(ナレーターとしてドラマを進行させる)には、最初は戸惑う。ナレーションをキャスト8人が分担しているからだ。しかも、途中からは(男性である)戎屋海老が担当し、彼が小栗役も演じる。生々しさを払拭して、再現ドラマ風の作りの緩い芝居として(ラフスケッチのように)展開していく。「朗読劇」というスタイルがそうさせるのだが、この緩やかさがこの作品のよさだ。きちっとした芝居にはない味わいが生まれる。主要キャストとなる役を、自分自身が演じるのもいい。途中に挿入される芝居のワンシーンはリアルに再現し演じられる。そういう緩急の切り替えが上手い。
ラストの桜の花の下での宴会のシーンもいい。みんなが集まり、楽しい時間を過ごす。彼は芝居をすることで、仲間と生きてきた。孤高の人ではなく、周囲の優しい人たちに支えられて、生かされた。だから、そこに甘えるのではなく、そこから逃れようとした。「芝居をしてなかったなら犯罪者になっていたかもしれない」という彼の言葉は、「芝居」ではなく(もちろん、芝居でもあるけど)「仲間がいなかったら」という言葉に置き換えられてもいい。「家族」と置き換えても構わない。この公演を見ながら、そこからは、彼がこんなにも愛されたのはなぜなのか、が見えてくる。彼の妻である小寿枝さんの想いが「みんな」を動かし、それがこの作品に結実する。この芝居の小栗さんは大竹野と関わったすべての人たちでもある。そして、この芝居を見た観客も、だ。この作品を通して大竹野正典を身近に感じ、彼の抱えた孤独を追体験する。自分も同じ。そう思うとほっとする、と同時に寂しくなる。大切な家族から逃げたい、と思う瞬間、誰もが大竹野になる。
自分がこうしたい、と思ったことが、
果たしてちゃんと伝わるのか?
初日が明けるまで、本当に不安でした。
でもちゃんと渡したかったものが、
受け取ってもらえたのだと思いました。
ほんとにほんとにありがとうございます!!