『ランチのアッコちゃん』の柚木麻子のデビュー作を読む。遡って読んだ『嘆きの美女』も同じパターンの傑作だったから、この人は最初からこれだけの力量を持っていたのか、と思ったが、そうではなかった。このデビュー作を見て、安心した。彼女もまた、普通の作家なのだ。
この暗くて重い小説(それを否定するのではない。そこに、ほっとするのだ。)からスタートして、あれだけの軽妙な作品に至る。しかも、短期間で、である。確かに天才だ。軽いだけの小説ならいくらでも書ける人はいる。だが、彼女の軽やかさはそれだけではない。確かな人間観察と、そこから立ち上がる人物造型。そこには、痛みを抱えた人間がそれでも、笑って生きていく姿がある。
この作品の少女たちは痛い。高校生って、器用そうに見えて実は実に不器用なのだ。だから、彼女たちは日々傷ついている。もっとリラックスして生きれたならいいのだけど、簡単ではない。大人なら悩まないことでも彼女たちは気になる。そして、とんでもないことを仕出かしてしまう。そのことに気付くこともなく、過ごす場合もある。最後のエピソードで、高校を卒業して4年後のエピソードが入る。高1から数えると7年後の出来事だ。7年たって初めてあの頃の自分を知る。自分たちは同じような存在だったのだ。あの頃の希代子の気持ちが今ならわかる。というか、あの頃の彼女と大人になったはずの自分が同じようなことをしていると気づくのだ。それでは高1以下ではないか。自分が自分で恥ずかしい。この終点は、実はあの始まりだったのだ。
それぞれのケースは同じではない。それぞれの立ち位置が違うからだ。しかし、みんな同じように弱い。おどおどしながら生きている。表面的には堂々として華やかに見える人たちも同じだ。ほんのちょっとしたことで、立ち直れなくなる。人を平気で傷つけるくせに、自分も傷だらけ。人の顔色ばかりうかがう。教室で楽しく生きているように見えて、実はびくびくしている。いつ何がどうして、どうなるかなんて、わからないからだ。もっと自信を持てればいい。でも、それは難しい。
人間関係の困難さをここまで前面に押し出してくる。確固とした自分がまだないからだ。大人になれば自分に自信が持てるようになる、のかもしれない。でも、まだ、無理だ。そんな不安定な時間が描かれる。それは、懐かしいような、でも、戻りたくはない暗い記憶を喚起させる。青春がキラキラしたものだ、なんていうのは、すべてを忘れてしまった大人だけだ。そこにいる時間は地獄でもある。
この暗くて重い小説(それを否定するのではない。そこに、ほっとするのだ。)からスタートして、あれだけの軽妙な作品に至る。しかも、短期間で、である。確かに天才だ。軽いだけの小説ならいくらでも書ける人はいる。だが、彼女の軽やかさはそれだけではない。確かな人間観察と、そこから立ち上がる人物造型。そこには、痛みを抱えた人間がそれでも、笑って生きていく姿がある。
この作品の少女たちは痛い。高校生って、器用そうに見えて実は実に不器用なのだ。だから、彼女たちは日々傷ついている。もっとリラックスして生きれたならいいのだけど、簡単ではない。大人なら悩まないことでも彼女たちは気になる。そして、とんでもないことを仕出かしてしまう。そのことに気付くこともなく、過ごす場合もある。最後のエピソードで、高校を卒業して4年後のエピソードが入る。高1から数えると7年後の出来事だ。7年たって初めてあの頃の自分を知る。自分たちは同じような存在だったのだ。あの頃の希代子の気持ちが今ならわかる。というか、あの頃の彼女と大人になったはずの自分が同じようなことをしていると気づくのだ。それでは高1以下ではないか。自分が自分で恥ずかしい。この終点は、実はあの始まりだったのだ。
それぞれのケースは同じではない。それぞれの立ち位置が違うからだ。しかし、みんな同じように弱い。おどおどしながら生きている。表面的には堂々として華やかに見える人たちも同じだ。ほんのちょっとしたことで、立ち直れなくなる。人を平気で傷つけるくせに、自分も傷だらけ。人の顔色ばかりうかがう。教室で楽しく生きているように見えて、実はびくびくしている。いつ何がどうして、どうなるかなんて、わからないからだ。もっと自信を持てればいい。でも、それは難しい。
人間関係の困難さをここまで前面に押し出してくる。確固とした自分がまだないからだ。大人になれば自分に自信が持てるようになる、のかもしれない。でも、まだ、無理だ。そんな不安定な時間が描かれる。それは、懐かしいような、でも、戻りたくはない暗い記憶を喚起させる。青春がキラキラしたものだ、なんていうのは、すべてを忘れてしまった大人だけだ。そこにいる時間は地獄でもある。