テキストとしてプルーストの『失われた時を求めて』を使用して、文学座の女優である渋谷はるかさんを共演に迎えてボヴェ太郎が挑むアイホールとの共同プロジェクト。彼のダンス作品が言葉を受け入れる。それだけでも興味津々。
もちろんこれは単純な小説のダンス化ではない。(それはそれで興味があるが)小説からイメージとしての風景を喚起する箇所を抽出して引用する。きっとこのやり方は正しい。だが、見ていて企画意図とは裏腹に、言葉の意味が素直に入ってこないのが辛かった。渋谷さんの語りのスピードには問題はない。彼女はゆっくりと丁寧に語る。風景が浮かび上がってくるようにしているはずだが、内容がストーリーではないから、なかなかイメ-ジしにくいのだ。しかも、ボヴェ太郎さんのダンスが入ると余計に集中して話が聞けなくなる。両者は相乗効果を発揮し、イメージを明確化するはずだったのではないか。なのに、そうはいかない。
テキストに誘発させた世界をダンスとして表現しているはずなのに、ドラマの視覚化ではないから、この2つは一体化しきれていない。ボヴェさんのいつもの緩やかで繊細な体の動きを見ているのはそれだけで快感だが、テキストがどう生かされているのかが見えてこないのはつらい。しかも、女優との共演もそれほどスリリングではない。あくまでもボヴェさんのダンスのBGMにしかならないのはもったいない。渋谷さんにもっと芝居をさせたなら、おもしろかったのではないか。ダンサー対女優の異業種バトルが見てみたかった。
音楽は一切使わない。その代わりがプルーストである。だが、それではプルーストをここに持ってきた意味がない。提示した様々な要素ががっちり噛みあい思いもしない世界へ連れて行って欲しかった。ある種の予定調和にしかならなかったのは残念だ。
もちろんこれは単純な小説のダンス化ではない。(それはそれで興味があるが)小説からイメージとしての風景を喚起する箇所を抽出して引用する。きっとこのやり方は正しい。だが、見ていて企画意図とは裏腹に、言葉の意味が素直に入ってこないのが辛かった。渋谷さんの語りのスピードには問題はない。彼女はゆっくりと丁寧に語る。風景が浮かび上がってくるようにしているはずだが、内容がストーリーではないから、なかなかイメ-ジしにくいのだ。しかも、ボヴェ太郎さんのダンスが入ると余計に集中して話が聞けなくなる。両者は相乗効果を発揮し、イメージを明確化するはずだったのではないか。なのに、そうはいかない。
テキストに誘発させた世界をダンスとして表現しているはずなのに、ドラマの視覚化ではないから、この2つは一体化しきれていない。ボヴェさんのいつもの緩やかで繊細な体の動きを見ているのはそれだけで快感だが、テキストがどう生かされているのかが見えてこないのはつらい。しかも、女優との共演もそれほどスリリングではない。あくまでもボヴェさんのダンスのBGMにしかならないのはもったいない。渋谷さんにもっと芝居をさせたなら、おもしろかったのではないか。ダンサー対女優の異業種バトルが見てみたかった。
音楽は一切使わない。その代わりがプルーストである。だが、それではプルーストをここに持ってきた意味がない。提示した様々な要素ががっちり噛みあい思いもしない世界へ連れて行って欲しかった。ある種の予定調和にしかならなかったのは残念だ。