この映画のなんとも言えない緩やかなタッチが好き。なんでもない生活の風景が提示される。自分もまたこの街で暮らしているようなそんな気分にさせられる。ドラマチックとは別次元で、そこに生きる人たちのスケッチを彼らの目線で見ている。だから彼らと一緒にそこで暮らしている自分を想起する。でも、それは感情移入して彼らと寄り添うのではなく、もっとさりげない。特別ではないありふれた日常がそこにはある。ここで暮らしてる誰もが彼らで、彼らは自分ではないけど、自分もまた彼らと同じようなことをしてそこで生きているような気分。彼らの横で、そこで暮らして毎日を過ごしている。
主人公の青年はきっと「いつかの自分」だ。あんなふうにしていたこともあった。大学生の頃、京都の町で4年間過ごした。いろんなところをフラフラした。観光地ではなく生活空間としての京都だ。この映画を見ながらあの頃の気分がよみがえった。好きだった女の子とほんのちょっとおしゃべりしただけで舞い上がったり、お茶を飲んだだけでときめいたり。でも、ふだんは何もない。大学に行き、それ以上に毎日映画を見に行き、河原町や一条寺を徘徊していた。これはあの頃の気分なのだ。
彼らはこの下北沢という狭い街で、フラフラしている。古着屋で働き、彼女に振られて、学生の自主映画にスカウトされて出演したり、そこでのほんのちょっとした出会いだとか。ドラマチックとはほど遠い。なんてこともないスケッチなのだ。だけど、それがどうしてこんなにも心地よいのだろうか。
人と人とが街のどこかで出会い、あるいは出会わないまますれ違い、暮らしていく。古着屋でお客さんがいないからずっと本を読んでいる。客が来たら一応はちゃんと接客はする。とうぜんだ。だけど、圧倒的に暇だから読書が仕事。アルバイトのようなものだから、気楽で、これが一生の仕事であるわけではない。この先どうしようとか、そんなことで悩んだりはしない。まだ、20代の後半になったばかりで、将来のことはなんとかなるとでも思っているのだろう。たぶん。彼女に棄てられ傷心しているけど、悲観してもしかたないから、なんとなく生きている。今まで通りに暮らしている。こんなにも何もない映画は珍しい。なのに、こんなにも面白いのは、これが普段の僕たちの気分を体現しているからだろう。なんだかとてもいろんなことに共感でき、わかる気がするのだ。
彼を巡る4人の女の子たちがぶつかり合い、事態が収束していくラストの展開は少し出来すぎのような気もするけど、そんな偶然すら受け入れられるのはこの映画のそれまでがあまりに自然だったからだろう。街歩きのような映画で、ほとんどなんにも起こらない映画がこんなにも心地よく愛おしい。これは今泉力哉監督の最高傑作だろう。この作品の前の『愛がなんだ』やこの作品の後の『あの頃。』よりもいい。でも、この3作品がセットで描き出す世界観が彼の世界なのだ。とてもいい。