こんな芝居になるなんて、想像もつかなかった。重くて暗い。オリジナルはコメディなのに、同じ台本がどうしてこうなるのか、わけがわからない。もちろんそれは演出の力だ。そんなこと、わかっている。でも、ここまでやられると驚きを禁じ得ない。オリジナルは100分の作品だったのに、それがなんと130分になる。対面式の舞台で、象徴的な舞台美術は、このお話からリアルな感触を遠ざける。いつの時代のお話なのかも曖昧にする。だが、これは明らかの近過去であり、懐かしい未来のような気もする。
台本には笑える要素が満載だ。そこを敢えて封印して台本を書き換えたわけではないのに、そこに流れる重くて暗い部分をクローズアップした。橋本匡市はこの世界の暗さをこの作品の中からきちんと掬い上げる。バカバカしいお話のなかにあるダークサイドをきちんと絞り出して、笑えない世界を提示した。
冷蔵庫、洗濯機、TVが三種の神器と言われた時代を経て、日本が高度成長を遂げた後、バブルが崩壊した92年に上演されたこの作品は,大竹野が確実にやって来る暗い時代を予見した。あれから27年が経ち「お腹にウンコを抱えたまま死んでゆ」こうとしているこの国を舞台にして、全く異なった意匠のもと、この台本を再演し、今の時代に突きつけてくる。時代は変わっても、台本は古びることなく,今の芝居としてよみがえる。
時代に弓を引く(リボルバーの引き金を引く)のは誰か。そして、その銃弾はどこに向かおうとするのか。この作品は3人の男たちに託された3発の銃声のむこうに、見えてくるもの。それをしっかり見せようとする。時代に風穴をあけるのではない。閉塞された時代の中で、ウンコを溜めたまま死んでいくわけにはいかないからだ。少年はなんとかして、今の自分を乗り越えようと奮闘する。それはもちろん女装をすることが解決とはならない。組長の妻がマシンガンで敵対する組に殴り込むことが答えでもない。
夜中の粗大ゴミ捨て場に出没する3組のサラリーマン夫婦を入り口にしてドラマは迷宮の中をさまよい、思いもしない出口を提示する。だが、それも答えではない。大竹野戯曲を入り口にして、橋本匡市が見せてくれた出口の先にはどんな未来が見えているのか。僕たちはこんな時代を確かに生きているのだと実感する。戦慄の130分間だった。