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映画・演劇のレビュー

Micro To Macro『残響アナザーヘブン』

2012-09-03 21:08:39 | 演劇
 とてもよく出来た話だ。でも、それを組み立てる力が、作品のアイデアに及ばない。惜しい。このステキなストーリーを思いついて、それを大切に見せるために、丁寧に繰り返して見せた結果、全体のテンポが悪くなる。観客にまどろっこしい印象を与えてはダメだ。観客は伝えたいポイントさえ理解すれば後は、省略してもちゃんと作者の意図を理解して見てくれる。この作品の作、演出を手掛ける石井テル子さんは、もっと自分の観客を信じるべきだった。
 
 これはアイデアとしては、細田守監督の『時をかける少女』に匹敵するタイムトラベルものの傑作である。過去に戻ってやり直すと現在が微妙に変化していくことに気付いたソラシドが、なんとかして、ドレミの死という事実を回避するため、自分たちの記憶の書き換えをする。そうすることで、自分と彼女との大事な記憶がどんどん失われていくことになるのだが、彼はかまわないと思う。好きな彼女のためなら自分のことを彼女がすべて忘れてしまってもかまわないと思うのだ。それはなんとも切ない選択だ。

 大林宣彦監督の『時をかける少女』(細田版の原点だ!)の中で、原田知世は、「私の大切な想い出を消さないで!」と言った。たとえ、あなたがこの世界から消えてしまっても、私があなたと過ごした思い出さえ残ったなら、それを大切にして、その後の人生を生きることが出来る。でも、2人が出会った思い出すら消してしまうなんていう惨いことを認めるわけにはいかない。その理屈があの映画のラストシーンを感動的なものにする。だが、この芝居の主人公ソラシドは、たとえ彼女が自分のすべてを忘れても構わないと言う。そうすることで彼女が生きていられるのなら、そんなささいなこと、どうだっていい。どちらも、とても切ない想いだ。でも、よくわかる。大切なもののためなら、すべてを犠牲にしても悔いはないからだ。作品の一番大事な部分をいかに見せきるかが、何よりも大事だ。

 この芝居のラストであるサマーフェスのシーン。本来なら死んでしまい、ステージには立てなかったはずの彼女がそこで歌う。自分のことを忘れてしまった彼女をみつめるソラシド。その時、彼との記憶を失った彼女が、暗闇の中、何千人もの観客の中から偶然ソラシドを見つける。

 もちろんそれは偶然なんかではなく、ドラマとしての必然だ。あのラストが素晴らしい。あのシーンだけのために、それまでの2時間があったのである。だからこそ、もっとあそこを感動的に見せてもらいたかった。理屈としてはわかるけど、視覚的にはあれではあまりに平板過ぎて、感動がない。こんなにも見事なストーリーを考えたのに、それをあんな見せ方で終わらせたのでは悔しい。ベタな話である。それだからこそ、それをショーアップして、どう見せるのかが演出家の腕の見せ所なのだ。

 芝居の前半がもたついたのは、話の核心に到るための段取りに手間取ったからだ。だが、本当はそんな部分すっとばしても構わない。なのに、石井さんは丁寧に説明しなければ気が済まない。真面目過ぎた。でも、そこが彼女の魅力でもある。不器用だから、この誠実な主人公たちの造形が可能だったのだ。生きることに不器用な主人公たちが、自分の気持ちを大切な人に伝えられないまま過ごす時間を、これでもか、これでもか、と見せる。ちょっと気恥ずかしいほどだ。もっとスマートに見せればいいのに、といつも思う。

 石井さんがMicro To Macroで提唱する音楽劇というスタイルはとても興味深い。だが、どうしてもストーリーが弱くなる。それをライブシーン(と音楽の力)でカバーする必要がある。しかし、この2つが相乗効果を発揮するには至らない。まだ、別々のものとして、1本の作品の中に混在している。もし、この2つがみごとに融合したなら、きっと信じられないような感動が生まれるはずだ。この作品はその可能性の芽を確かなものとした。数年後、これを再演した時、僕等は必ず奇跡の瞬間に立ち会えることだろう。今からそれを楽しみにしている。

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