吉祥寺という街が生き生きと描かれてある。まずそこが気にいった。なんだか幸せそうなのだ、この街は。なんでもない街なのに。そこがいい。
主人公は40代の女性漫画家(小泉今日子)。映画は彼女の日常のスケッチなのだが、それがとてもリアルに描かれている。でも、それはまるで魔法の世界のようなすがすがしさ。絵空事というのとはちょっと違う。なによりまず彼女たちはなんだか楽しそうだ。
もちろんノーテンキで、幸せなことばかりではない。彼女は作家として成功して何不自由ない暮らしをしているのだが、プライベートは孤独で、見る人が見たら不幸な風に見えるのかもしれない。15年間飼ってきた猫が死んでしまって、落ち込んでいる。生きるために気力がわかない。新しい猫を飼えばいい、なんてものでもない気がする。そんな彼女を何とかしてあげたい。アシスタントの女の子たちはみんな先生の事が心配。でも、なにもしてあげられない。彼女は自分の意志でペットショップに行く。そこで見つけた子猫。その子に夢中になる。みんなは先生が新しい猫を飼う決心をしてくれて嬉しい。
井の頭公園をグーグーを追いかけて走り回るシーンが素敵だ。たくさんの人たちがここにいて、みんなそれぞれのことをしている。猫は自由に広い公園の中を走っていく。そんなグーグーに振り回される一同。 偶然に出会った不思議な青年(加瀬亮)になんとなく心惹かれる。みんなは彼と先生をくっつけようと一生懸命になる。そんな余計なお世話の数々が微笑ましい。
映画の後半、彼女が子宮がんになるシーンから当然のように暗くなる。だけれど、きちんとそういう状況さえ乗り越えていく。死んでしまったサバと夢で出会うシーンも素晴らしい。サバの死から始まったこの映画は、自分の臨死体験を通して、もう一度今までと同じように生きていくまでがドラマチックにではなく、とても当たり前のこととして描かれる。とても力強い映画だ。
そして、生きることに対して真摯な映画なのだ。何よりも小泉今日子がすばらしい。大島弓子の分身としてこの映画の中で光り輝いている。彼女の悲しみをたたえた横顔が美しい。40代の女性が自然体で美しく生きていく姿を見事に表現している。
若いアシスタントの上野樹里の目線でドラマが構成されているのもいい。あのへんな外人教師(死神だったりする)による吉祥寺の解説もいい。いったい彼がどうドラマと関わってくるのか終盤までわからないのもいい。
主人公は40代の女性漫画家(小泉今日子)。映画は彼女の日常のスケッチなのだが、それがとてもリアルに描かれている。でも、それはまるで魔法の世界のようなすがすがしさ。絵空事というのとはちょっと違う。なによりまず彼女たちはなんだか楽しそうだ。
もちろんノーテンキで、幸せなことばかりではない。彼女は作家として成功して何不自由ない暮らしをしているのだが、プライベートは孤独で、見る人が見たら不幸な風に見えるのかもしれない。15年間飼ってきた猫が死んでしまって、落ち込んでいる。生きるために気力がわかない。新しい猫を飼えばいい、なんてものでもない気がする。そんな彼女を何とかしてあげたい。アシスタントの女の子たちはみんな先生の事が心配。でも、なにもしてあげられない。彼女は自分の意志でペットショップに行く。そこで見つけた子猫。その子に夢中になる。みんなは先生が新しい猫を飼う決心をしてくれて嬉しい。
井の頭公園をグーグーを追いかけて走り回るシーンが素敵だ。たくさんの人たちがここにいて、みんなそれぞれのことをしている。猫は自由に広い公園の中を走っていく。そんなグーグーに振り回される一同。 偶然に出会った不思議な青年(加瀬亮)になんとなく心惹かれる。みんなは彼と先生をくっつけようと一生懸命になる。そんな余計なお世話の数々が微笑ましい。
映画の後半、彼女が子宮がんになるシーンから当然のように暗くなる。だけれど、きちんとそういう状況さえ乗り越えていく。死んでしまったサバと夢で出会うシーンも素晴らしい。サバの死から始まったこの映画は、自分の臨死体験を通して、もう一度今までと同じように生きていくまでがドラマチックにではなく、とても当たり前のこととして描かれる。とても力強い映画だ。
そして、生きることに対して真摯な映画なのだ。何よりも小泉今日子がすばらしい。大島弓子の分身としてこの映画の中で光り輝いている。彼女の悲しみをたたえた横顔が美しい。40代の女性が自然体で美しく生きていく姿を見事に表現している。
若いアシスタントの上野樹里の目線でドラマが構成されているのもいい。あのへんな外人教師(死神だったりする)による吉祥寺の解説もいい。いったい彼がどうドラマと関わってくるのか終盤までわからないのもいい。