17年前の作品だ。桃園会による初演を見た当時には感じなかった深津さんの若々しさを今回の空の驛舎ヴァージョンから僕が受け取ったのは時代を経たからだろう。20世紀の終わりという時代、阪神淡路大震災から5年という時間、そんな中でリアルタイムに見た本作はとても切実な痛みを抱えた青春ドラマだったのだと、今改めて思う。作品自体は古くなってないけど、いや、それどころかいろんな意味で新鮮だったほどだ。でも、なんだかノスタルジックな作品にも映る。不思議な気分だ。
彼らは5人組のグループだった。あの時、好きだった彼女が死んだ。あれから5年を経て、もう一度彼らの友情を再確認する。本田(彼女の苗字)の死、とは何だったのか。もちろん「死」に意味なんかない。偶然の所産だ。それは残された者のこだわりだ。だが、まだ、こだわりを払拭できない。そんな思いを抱えたまま、その日、4人はそこに行く。ドラマはそこから始まる。
この作品は普遍的な死、とか、青春時代とか、そういうものを描く。でも、それが震災から5年という縛りの中で、さまざまなことを考えさせることにもなる。答えを描くのではない。死(震災)という出来事を通して自分たちが何を思い、何を感じたのか。そこが中心を為す。そして、それでも前を向いて生きていこうとする彼らの姿を通して、深津さんの抱える痛みだけではなく、彼自身の若さを伝える。そんな作品だったのではないか、と思う。だからこれは青春ドラマなのだ。
今回この作品を演出した中村賢司さんは、そんな若々しさを、ある種の距離感をもって描く。もちろんそれはノスタルジアではなく、東日本大震災から6年を経た今、ということも考慮した普遍性へとつながる。ここに描かれるものは、誰もが抱える青春の悔恨だ。彼女の5年目の命日、夜中から夜明けまでの時間を通して、彼らの生きる今という時間を立ち止まることではなく、タイトル通り「突っ走って」いくように描く。大人である中村さんはまだ若かった深津さんの想いを丁寧に切り取る。
L字型に作られたリアルな、どこかの倉庫のセットはとてもいい。この閉鎖的空間は、広々としていて寒々とする。だけど、そこから夜明けの海を見るラストに向けて、このドラマの舞台として実に効果的だ。誰からも顧みられない場所。雑然としていて、でも、なんだか暖かい。このうらぶれた空間で一夜のドラマが綴られる。彼らの時間はきっと5年前で止まったままだったのかもしれない。ここにある「もの」の記憶は失われた恋人をよみがえらせる。そして悔恨ではなく、失ったものを通して自分たちが未来にむけて生きていくことを描くのだ。この静かな場所での静かな芝居は、そんな未来にむけてのレクイエムである。
彼らは5人組のグループだった。あの時、好きだった彼女が死んだ。あれから5年を経て、もう一度彼らの友情を再確認する。本田(彼女の苗字)の死、とは何だったのか。もちろん「死」に意味なんかない。偶然の所産だ。それは残された者のこだわりだ。だが、まだ、こだわりを払拭できない。そんな思いを抱えたまま、その日、4人はそこに行く。ドラマはそこから始まる。
この作品は普遍的な死、とか、青春時代とか、そういうものを描く。でも、それが震災から5年という縛りの中で、さまざまなことを考えさせることにもなる。答えを描くのではない。死(震災)という出来事を通して自分たちが何を思い、何を感じたのか。そこが中心を為す。そして、それでも前を向いて生きていこうとする彼らの姿を通して、深津さんの抱える痛みだけではなく、彼自身の若さを伝える。そんな作品だったのではないか、と思う。だからこれは青春ドラマなのだ。
今回この作品を演出した中村賢司さんは、そんな若々しさを、ある種の距離感をもって描く。もちろんそれはノスタルジアではなく、東日本大震災から6年を経た今、ということも考慮した普遍性へとつながる。ここに描かれるものは、誰もが抱える青春の悔恨だ。彼女の5年目の命日、夜中から夜明けまでの時間を通して、彼らの生きる今という時間を立ち止まることではなく、タイトル通り「突っ走って」いくように描く。大人である中村さんはまだ若かった深津さんの想いを丁寧に切り取る。
L字型に作られたリアルな、どこかの倉庫のセットはとてもいい。この閉鎖的空間は、広々としていて寒々とする。だけど、そこから夜明けの海を見るラストに向けて、このドラマの舞台として実に効果的だ。誰からも顧みられない場所。雑然としていて、でも、なんだか暖かい。このうらぶれた空間で一夜のドラマが綴られる。彼らの時間はきっと5年前で止まったままだったのかもしれない。ここにある「もの」の記憶は失われた恋人をよみがえらせる。そして悔恨ではなく、失ったものを通して自分たちが未来にむけて生きていくことを描くのだ。この静かな場所での静かな芝居は、そんな未来にむけてのレクイエムである。