もし、ヒトラーがフロイトと出会っていたなら。そういう魅力的な仮説に基づく2作品を別々の作家、演出家、キャストで描く2作品を同時上演する企画。それぞれ1時間の作品は全く独立し、リンクしない。そんなそっけないほどのさりげなさがいい。セットで何かを伝えるわけではない。時代も違う。アプローチも違う。でも、ふたつは同じようにヒトラーとフロイトの出会いを描く。共通項はそれだけ。もちろん、それ以上何もいらない。
1本目の『遊んで。お父さん』は、くるみざわしん、脚本。増田雄、演出。アドルフは出てこない。フロイトと向き合うはずのアドルフを見せないことで、彼とのドラマを見せる。アドルフの家族と、主治医が登場する。彼らがフロイトと交わす会話を通して幼いアドルフ(6歳)が抱える闇が描かれていく。とてもスリリングだ。ラストのどんでん返しがおもしろい。その後アドルフを拒否するフロイト、という図式もいい。6歳の子供に本当のことを言われて、もうその先に進めなくなる。ラストでもうひとつどんでん返しがあればもっと面白いのだが、そこまではいかない。演出もメリハリがあって悪くない。
それに反して2本目の『エディプスの鏡』は、台本がつまらない。(先の作品では演出を担当し、この公演を企画した増田雄)もっと想像力を刺激するようなドラマを見せて欲しかった。こちらはストレートに直球勝負したのに、まるで両者の一騎打ちにならないのはどうしたことか。フロイトが隈本晃俊で、アドルフが三田村啓示という最高のキャストを持ってきたのに。
両雄がガチでバトルする芝居を期待しただけにがっかりだった。演出(空ノ驛舎)はメリハリをつけようとして、さらりと見せるところと、スフィンクスの登場を通してはしゃぐところとの対比も含めて努力しているのだが、あまり上手く機能していない。きっと中村さんはこういうのは苦手なのだ。だから、台本が人間ドラマとして彼らを追い詰めていく緊密な作品であれば、フラットな芝居として緊張感のあるものを提示できたはずなのだ。脚本が想像力を刺激しないので、演出はそうはできなかった。フロイトは受け身になり、アドルフは頑な。これでは2人の対話に緊張感は生じない。役者たちも戸惑うばかりだ。特に三田村さんのアドルフなんて最高のキャスティングなのに、ここまで生きないなんて、悔しい。(さすがにちょび髭がなかったのは唯一の救い)
この2作品を通してありえたかもしれない歴史を描こうとする。そこが歴史の分岐点になりえたかもしれない。そんな時間をどう切り取るかが、この企画の一番のポイントだ。まず、その設定をいかにリアルに描くのか。そうすることで歴史がどうかわるのか。しかし、この2本は、歴史は変わらない、という答えを出す。特にフロイトの無力が強調されていく。それって、どうなのか。
6歳と19歳。ふたつの時間のアドルフと出会ったフロイトがここまで彼に決定的な影響を与えないようでは、この作品に意味はない。「VS物」の定番は力の均衡。そうじゃなくては面白くない。なのに、大人のフロイトが子供のアドルフに完敗している。フィクションなのだから、もっとドキドキするような力のバランスを示してもらいたかった。特に2本目。与えられる情報が少なすぎるから話に広がりが生じない。せっかくの題材が消化不良を起こしているのがなんとももったいない。