今年もウイングカップがスタートした。コロナ下でも中止、延期することなく昨年に続いて今年もいつも通りに始められたことをうれしく思う。今年も7団体が参加する。しかも参加団体は例年以上に若いグループばかりらしい。こんな時代なのに(こんな時代だから、)それでも芝居をしたい、と思う若い人たちが確かにいる。そんな彼らの情熱が1本の作品のなかにどういうふうに込められるか。それを目撃できるのがうれしい。
さて、今回のトップバッターはこの作品である。古後七海プロデュース企画と銘打たれてある。彼女の作品にかける熱い想いが伝わる。作り手のこだわりが随所にみられる。チラシや集団名、ひらがなだけのタイトルというパッケージングだけではなく、当然作品自体にも、だ。ただ、それは空回りしている。
死んでしまった母親の遺骨をお墓に収める前日。都会からこの田舎町に戻ってきた姉。故郷を離れて、暮らす彼女が抱える違和感。彼女を迎える父親と、妹、弟。敢えて説明的な作りはしないから、少し舌足らずだ。描かなくても匂わせる、感じさせれたならいいのだけど、もどかしい。ここを出ていった自分とここに残る(ここで生きる)家族との距離。電話で母親と話をすること。電話を風呂敷で包み込んだら、それを骨壺と見立てるという仕掛けがもっとうまく機能したならよかったのだが、電話を象徴的に使い切れていないから、なんだか嘘くさくなる。電話機でなくてはならない、という強い意志が芝居の根底に貫かれていないから、このふたつがちゃんと重ならない。舞台中央の電話ボックスもそうだ。わざわざそこに作って設置したにも関わらず、それが邪魔なものになるのはもったいない。実家の食卓を舞台にして芝居が展開するにもかかわらず、その中心に電話ボックスを置く以上、そこにそれがなければならないという確固とした意志が必要なのである。舞台美術は作品世界を形作る。台本を生かすも殺すもそこを含めた演出の力だろう。残念だがそこが中途半端なので、空間を生かしきれていない。
ラストの骨壺を割るという過激な行為と、父を殴りつける行為を重ね合わせることも同じだ。怒りの正体がどこにあるのか、そこにどんな意味があるのか。それが描き切れていない。だから、そこから十円玉が飛び出してくるという仕掛けも衝撃的ではない。砕け散る母の骨と十円玉を重ねることで何を伝えたかったのか。彼女の母親への想い、さらには父への想い、家族への想い。そんなすべてがひとつに重ねった時、答えに至る、そんな図式を提示できたなら、よかったのだけど残念だ。