イニャリトゥの脚本家として注目を浴びてきたギジェルモ・アリアガの監督デビュー作である。通俗的なメロドラマすれすれのお話を神話的なドラマのレベルにまで高めて見せてくれる。その手腕は確かなもので、それはそれで高く評価されてもいい。だが、ここには大切な「何か」が足りない。だから、見終えて素直には感動できない自分に戸惑うことになる。
理屈としてはわかるけど、これでは人の心の深くにまでは沁みてこない。映像の力は感じる。象徴的な風景描写は圧倒的な迫力がある。冒頭の燃え上がるトレーラーハウスや、レストランのすぐ横の圧倒的な断崖とか、印象的な風景を観客の目に刻み込む。だが、これだけでは映画としては不十分だ。
もし、この映画を瀬々敬久監督が撮ったなら、きっと凄い作品になったはずだ。その時は、脚本は井土紀州が書くことになる。瀬々+井土コンビなら、イニャリトゥ+アリアガですら遙かに上回る。『アモーレスロペス』や『バベル』は残念だが『雷魚』や『汚れたマリア』には及ばない。今回の題材は瀬々敬久監督が一番得意とする作品だろう。まぁ、今はそんな話をしているのではない。あくまでもアリアガの作ったこの映画の話だった。
いつものように巧みな構成になっているのだが、これはどうしようもなく頭で作った映画だと思う。だから心情的に伝わらない。風景と人間とが一体化するところまではいかない。理屈ではない感情の噴出が描けない。
主人公の少女は母親と彼女の浮気相手の命を奪ってしまった瞬間から、心が死んでしまう。ましてや、彼女の絶対的な孤独は、母の行為を肯定するような自分の行為によって癒されるわけではない。なぜ、自分たち家族を母は裏切ったのか。自分もまた母と同じように、母が愛した男の息子に抱かれることで母の行為を追体験し、そこから何かが見えてくると思ったのか。それは彼女にとって自らを罰する行為だったのか。それが地獄でしかないことは彼女にもわかっていたはずだ。なのに、理屈では説明の出来ない行為を受け入れて、無間地獄に落ちていく。逃げても、逃げても、もうそこからは逃れられない。生まれてきた子供も棄ててこの町を出る。
そして男たちをどんどん受け入れていく。それは母親への復讐なのか。自分を傷つけることで、得るものなんて何もないのに。
母親が父を裏切り、自分たちも裏切ったのは乳ガンによって胸を失ったからなのか。手術の後、彼女を抱けなくなった夫が許せなかったのか。母は自分を美しいと言って愛してくれた男への思いを抑えられなくなる。
生まれたばかりの娘を棄てて、恋人だったはずの母の浮気相手だった男の息子である男も棄てて、出奔した果てに、新しい人生はなかった。12年の歳月を経て、2人のもとに戻っていくというラストを単純にハッピーエンドとして受け入れることは出来ない。自分が母を殺したように、彼女は生後間もない娘を棄てたのだ。なのに、あの時の自分よりも幼い娘はそんな彼女を受け入れる。その瞬間彼女の魂の地獄巡りは幕を閉じる。だが、これは、そんな簡単な問題ではないだろう。
いくつもの場所と時間が交錯し、この壮大な魂に叙事詩は形作られていく。3世代の女たち、そのそれぞれの想いをコラージュして、やがてそれらがひとつになる。描きたかったことはわかる。理屈としては確かにわかるのだが、これでは映画としては納得が行かないのも事実だ。
理屈としてはわかるけど、これでは人の心の深くにまでは沁みてこない。映像の力は感じる。象徴的な風景描写は圧倒的な迫力がある。冒頭の燃え上がるトレーラーハウスや、レストランのすぐ横の圧倒的な断崖とか、印象的な風景を観客の目に刻み込む。だが、これだけでは映画としては不十分だ。
もし、この映画を瀬々敬久監督が撮ったなら、きっと凄い作品になったはずだ。その時は、脚本は井土紀州が書くことになる。瀬々+井土コンビなら、イニャリトゥ+アリアガですら遙かに上回る。『アモーレスロペス』や『バベル』は残念だが『雷魚』や『汚れたマリア』には及ばない。今回の題材は瀬々敬久監督が一番得意とする作品だろう。まぁ、今はそんな話をしているのではない。あくまでもアリアガの作ったこの映画の話だった。
いつものように巧みな構成になっているのだが、これはどうしようもなく頭で作った映画だと思う。だから心情的に伝わらない。風景と人間とが一体化するところまではいかない。理屈ではない感情の噴出が描けない。
主人公の少女は母親と彼女の浮気相手の命を奪ってしまった瞬間から、心が死んでしまう。ましてや、彼女の絶対的な孤独は、母の行為を肯定するような自分の行為によって癒されるわけではない。なぜ、自分たち家族を母は裏切ったのか。自分もまた母と同じように、母が愛した男の息子に抱かれることで母の行為を追体験し、そこから何かが見えてくると思ったのか。それは彼女にとって自らを罰する行為だったのか。それが地獄でしかないことは彼女にもわかっていたはずだ。なのに、理屈では説明の出来ない行為を受け入れて、無間地獄に落ちていく。逃げても、逃げても、もうそこからは逃れられない。生まれてきた子供も棄ててこの町を出る。
そして男たちをどんどん受け入れていく。それは母親への復讐なのか。自分を傷つけることで、得るものなんて何もないのに。
母親が父を裏切り、自分たちも裏切ったのは乳ガンによって胸を失ったからなのか。手術の後、彼女を抱けなくなった夫が許せなかったのか。母は自分を美しいと言って愛してくれた男への思いを抑えられなくなる。
生まれたばかりの娘を棄てて、恋人だったはずの母の浮気相手だった男の息子である男も棄てて、出奔した果てに、新しい人生はなかった。12年の歳月を経て、2人のもとに戻っていくというラストを単純にハッピーエンドとして受け入れることは出来ない。自分が母を殺したように、彼女は生後間もない娘を棄てたのだ。なのに、あの時の自分よりも幼い娘はそんな彼女を受け入れる。その瞬間彼女の魂の地獄巡りは幕を閉じる。だが、これは、そんな簡単な問題ではないだろう。
いくつもの場所と時間が交錯し、この壮大な魂に叙事詩は形作られていく。3世代の女たち、そのそれぞれの想いをコラージュして、やがてそれらがひとつになる。描きたかったことはわかる。理屈としては確かにわかるのだが、これでは映画としては納得が行かないのも事実だ。