今年もドラカンは『たんじょうかい』をする。これで3年連続。でも、今回が最後になるらしい。残念だが、仕方あるまい。そろそろ筒井さんの作品が見たい、とたくさんの人たちが思っている。というか、誰か『たんじょうかい』を引き継いでくれないか、と筒井さんは書いている。(当日パンフによる)関西にはまだまだ凄い作家がたくさんいる。そんな作家たちを紹介して欲しいのだ。ドラカンとしては、今回で終わるけど、『たんじょうかい』は永遠だ! なんてね。
その時には、まず、ぜひとも取り上げて欲しい作家がいる。筒井さんに代わって僕が教えよう。もちろん、それは『筒井潤』であることは誰もが疑いようもない。本当なら一番にドラカンが取り上げてもよかった作家なのだが、それをしたならあまりにも手前みそだし、ないわぁ、という話なのでしなかった、のだろう。冗談はさておいて(冗談じゃないよ)、筒井作品を他の演出家が料理したならどうなるのか。とても、楽しみなのだ。
さて、今回の第3弾である。樋口ミユ、大竹野正典の2名をエントリーした。相変わらずいい選球眼をしている。さすが目利きだ。いつものことだが、3人の選択には絶妙なバランスが考えられてある。オーソドックスにひとり、異質なものを混ぜる。今回は劇団うんこなまずの繁澤邦明。しかも、彼の作品を最後に持ってくる大胆さ。それでこそ、筒井さんだ。樋口作品も、大竹野作品も、かなり、癖のある作品なのだが、繁澤作品には及ばない。しっとりした2本の後に敢えてこういうものを持ってこれる所が凄い。資質的には筒井テイストの作品なので、反対にやりにくかったのではないか。でも、筒井さんは軽やかになんともバカバカしい作品をチャーミングに見せた。
樋口ミユの『アイデアル』は怖い。女のひとでなくては書けない本だ。それと筒井さんがきちんと向き合い等身大に見せた。これは簡単そうに見えて困難な作業ではないか。怖い、という距離の取り方でも、コメディとしてでもなく、とても静かな作品として提示する。
はたもとようこ演じる母親。その圧倒的存在感。なのにそれを作品全体としては、敢えて前面には出さない。そうするとホラーになってしまうからだ。息子にとっての母親という存在を普遍化すると、怖くはなくなる。息子は母親に取り込まれて、本来の自分を出せないでいた。しかし、母の死を通して本当の自分になろうと努力する。だが、その前に立ちはだかるのは、妻、である。妻は母とは違う地点から(当然だ)彼を取り込んでいこうとする。母の呪縛だけではなく、今では妻の呪縛が彼の前には立ちはだかる。愛の地獄だ。かなり微妙な立ち位置から、彼ら3人の関係性を組み立てる。
2本目の『愛の棲家』は、家を出た男が、再び戻って来る話だ。大竹野の十八番。妻から離れ、放浪し、今では、日本地図のセールスマンになっている。偶然訪れた家がかって自分が住んでいた家で、そこには今も妻がいる。最初は気付かない。(そんなわけはない、のだが、そういう設定を用意するのだ、演劇のマジックだ)だが、徐々に記憶は甦ってくる。気付かないと書いたが、そうではない。気付いていた。潜在的な意識の中では帰りたい、と願っていた。
この2本の作品はいずれも、内面のドラマをストーリーの中に落とし込むという芝居にはよくあるパターンで、演劇の力を信じる作品だ。こういう作品が昔はたくさんあったのだが、今はとても少ない。芝居ならではの可能性を指し示す。
そして、その後、である。『tango@はじめて』のような実験的な作品を持ってくる。これもまた、演劇ならではの世界の提示だろう。先の2作品のテイストとは異質なものであることは一目瞭然だ。着ぐるみを着た3人の男たち。でも、彼らは女らしい。繰り返される言葉遊び。3人それぞれのお話。それらがなんだか微妙にリンクする。女たちのつぶやきのような独り言が交錯し、収まる所に収まって終わり。
みんな愛の話。でも、それぞれがそれぞれの語り口を持ち、いずれも刺激的だ。筒井さんはそれを慎重にテキストに沿って、見せていく。作品の持つ可能性を尊重し、それを丁寧に見せる。結果的にそれは優れた作品の紹介に止まらず、それは同時に演劇の可能性を指し示すこととなる。
その時には、まず、ぜひとも取り上げて欲しい作家がいる。筒井さんに代わって僕が教えよう。もちろん、それは『筒井潤』であることは誰もが疑いようもない。本当なら一番にドラカンが取り上げてもよかった作家なのだが、それをしたならあまりにも手前みそだし、ないわぁ、という話なのでしなかった、のだろう。冗談はさておいて(冗談じゃないよ)、筒井作品を他の演出家が料理したならどうなるのか。とても、楽しみなのだ。
さて、今回の第3弾である。樋口ミユ、大竹野正典の2名をエントリーした。相変わらずいい選球眼をしている。さすが目利きだ。いつものことだが、3人の選択には絶妙なバランスが考えられてある。オーソドックスにひとり、異質なものを混ぜる。今回は劇団うんこなまずの繁澤邦明。しかも、彼の作品を最後に持ってくる大胆さ。それでこそ、筒井さんだ。樋口作品も、大竹野作品も、かなり、癖のある作品なのだが、繁澤作品には及ばない。しっとりした2本の後に敢えてこういうものを持ってこれる所が凄い。資質的には筒井テイストの作品なので、反対にやりにくかったのではないか。でも、筒井さんは軽やかになんともバカバカしい作品をチャーミングに見せた。
樋口ミユの『アイデアル』は怖い。女のひとでなくては書けない本だ。それと筒井さんがきちんと向き合い等身大に見せた。これは簡単そうに見えて困難な作業ではないか。怖い、という距離の取り方でも、コメディとしてでもなく、とても静かな作品として提示する。
はたもとようこ演じる母親。その圧倒的存在感。なのにそれを作品全体としては、敢えて前面には出さない。そうするとホラーになってしまうからだ。息子にとっての母親という存在を普遍化すると、怖くはなくなる。息子は母親に取り込まれて、本来の自分を出せないでいた。しかし、母の死を通して本当の自分になろうと努力する。だが、その前に立ちはだかるのは、妻、である。妻は母とは違う地点から(当然だ)彼を取り込んでいこうとする。母の呪縛だけではなく、今では妻の呪縛が彼の前には立ちはだかる。愛の地獄だ。かなり微妙な立ち位置から、彼ら3人の関係性を組み立てる。
2本目の『愛の棲家』は、家を出た男が、再び戻って来る話だ。大竹野の十八番。妻から離れ、放浪し、今では、日本地図のセールスマンになっている。偶然訪れた家がかって自分が住んでいた家で、そこには今も妻がいる。最初は気付かない。(そんなわけはない、のだが、そういう設定を用意するのだ、演劇のマジックだ)だが、徐々に記憶は甦ってくる。気付かないと書いたが、そうではない。気付いていた。潜在的な意識の中では帰りたい、と願っていた。
この2本の作品はいずれも、内面のドラマをストーリーの中に落とし込むという芝居にはよくあるパターンで、演劇の力を信じる作品だ。こういう作品が昔はたくさんあったのだが、今はとても少ない。芝居ならではの可能性を指し示す。
そして、その後、である。『tango@はじめて』のような実験的な作品を持ってくる。これもまた、演劇ならではの世界の提示だろう。先の2作品のテイストとは異質なものであることは一目瞭然だ。着ぐるみを着た3人の男たち。でも、彼らは女らしい。繰り返される言葉遊び。3人それぞれのお話。それらがなんだか微妙にリンクする。女たちのつぶやきのような独り言が交錯し、収まる所に収まって終わり。
みんな愛の話。でも、それぞれがそれぞれの語り口を持ち、いずれも刺激的だ。筒井さんはそれを慎重にテキストに沿って、見せていく。作品の持つ可能性を尊重し、それを丁寧に見せる。結果的にそれは優れた作品の紹介に止まらず、それは同時に演劇の可能性を指し示すこととなる。