1986年、日本シリーズで奇跡が起きる。西武ライオンズが3連敗から4連勝の大逆転優勝を果たしたのだ。その時、中学生だった彼は文化祭のために、毎日学校で劇の練習をしていた。ベケットの『ゴドーを待ちながら』である。憧れの同級生だった少女と2人、エストラゴンとヴラジーミルを演じる。
田中慎弥の小説は初めてだ。なんだか読みにくい。それはモノローグだけで綴られていくからだ。父親が息子に、かって子どもだった頃の自分の話を語る。今、部屋に引きこもる小学生の息子に、自分が息子の母親(もちろん自分の妻だ!)である女性と出逢ったころのことを語る。そして、自分の父親(自分が幼い頃に家を出た)との思い出を語る。
ゴドー(ゴッド)を待つ少年だった父親の話は、たぶんに独りよがりで、この小説を通して作者(あるいは主人公である父親)は何を語りたかったのか、よくわからない。この話を聞く息子(あるいは、読者である僕たち)は戸惑いを隠せない。こんなにも自分の世界に浸るような小説を読んだのは初めてで、なんだか新鮮な驚きがあった。これは、おもしろいとか、つまらないとか言う次元を超えている。
たぶん、言いたいことはたくさんあるのだろう。ここに隠された作者の思いはわからなくもない。だが、これでは駄目だ。失われた父親への思いを息子に託すだなんて意味がない。こういう感傷をそのまま小説にできてしまうって、なかなか凄いことかもしれないが、なんだかなぁ、と思った。
1958年西鉄ライオンズが奇跡を起こした時、出て行った父のこと。それを86年の再び起きた奇跡と重ねて、その先の「今」に何を描こうとしたのか、そこが一番大事なのではないのか。なのにこの小説では、そこがおざなりにされている。描くべきものをどう描くのか、それは難しい問題だが、その答えを出すのが作家ではないか。なんだか、基本の基本が欠落している。
田中慎弥の小説は初めてだ。なんだか読みにくい。それはモノローグだけで綴られていくからだ。父親が息子に、かって子どもだった頃の自分の話を語る。今、部屋に引きこもる小学生の息子に、自分が息子の母親(もちろん自分の妻だ!)である女性と出逢ったころのことを語る。そして、自分の父親(自分が幼い頃に家を出た)との思い出を語る。
ゴドー(ゴッド)を待つ少年だった父親の話は、たぶんに独りよがりで、この小説を通して作者(あるいは主人公である父親)は何を語りたかったのか、よくわからない。この話を聞く息子(あるいは、読者である僕たち)は戸惑いを隠せない。こんなにも自分の世界に浸るような小説を読んだのは初めてで、なんだか新鮮な驚きがあった。これは、おもしろいとか、つまらないとか言う次元を超えている。
たぶん、言いたいことはたくさんあるのだろう。ここに隠された作者の思いはわからなくもない。だが、これでは駄目だ。失われた父親への思いを息子に託すだなんて意味がない。こういう感傷をそのまま小説にできてしまうって、なかなか凄いことかもしれないが、なんだかなぁ、と思った。
1958年西鉄ライオンズが奇跡を起こした時、出て行った父のこと。それを86年の再び起きた奇跡と重ねて、その先の「今」に何を描こうとしたのか、そこが一番大事なのではないのか。なのにこの小説では、そこがおざなりにされている。描くべきものをどう描くのか、それは難しい問題だが、その答えを出すのが作家ではないか。なんだか、基本の基本が欠落している。