きっとそのうち当麻さんはやる、と思っていた。だから、今回が『マッチ売りの少女』だった時、やっぱりね、としか思わなかった。というか、ようやくか、とも。でも、僕たちが思う以上に当麻さんは覚悟を決めてこの作品に挑んだのではないか。これまでのSSTプロデユースでの作品の総決算としてこれに挑んだはずだ。この劇場で、ずっと別役作品を手掛け、2人芝居を通して、ささやかな幸福と、それが如何に脆いものかを、描き続けてきた彼のここでのこれまでの仕事の到達点が、ここには示される。
でも、それはそんなおおげさなことではない。タッチはいつも同じだ。この小さな劇場にぴったりと収まる。静かな芝居である。感情が溢れることはない。たとえそんなふうに演出できるところでも、彼はそうはしない。夜のお茶をする夫婦のもとに訪れる女。彼女はふたりの娘である、という。さらには、彼女の弟もやってくる。混乱する老夫婦。こういうストーリー展開を持つこの戯曲をどう演出するかは、それぞれの演出家の腕も見せどころだ。当麻さんは確信を持ち、今までの作風を踏襲する。特別なことはしない。
夫婦は戸惑う。でも、受け入れる。彼らが何を隠し、どう生きてきたのかは、ここには描かれない。訪問者の2人が本当の娘とその弟なのかも、不問に付す。必要なことは事実ではなく、今ある現実なのだ。それを穏やかに受け止めることが大切なことなのだ。ここに描かれる不条理の意味を追いかけるのではなく、静かにそれをありのままで受け止めて、そこで生きる2人の姿を見せること。それが何よりも大事なことではないか、と当麻さんは考える。
この作品が、当然のことだが、ちゃんと当麻さんらしい、潔い芝居に仕上がったことがうれしい。
でも、それはそんなおおげさなことではない。タッチはいつも同じだ。この小さな劇場にぴったりと収まる。静かな芝居である。感情が溢れることはない。たとえそんなふうに演出できるところでも、彼はそうはしない。夜のお茶をする夫婦のもとに訪れる女。彼女はふたりの娘である、という。さらには、彼女の弟もやってくる。混乱する老夫婦。こういうストーリー展開を持つこの戯曲をどう演出するかは、それぞれの演出家の腕も見せどころだ。当麻さんは確信を持ち、今までの作風を踏襲する。特別なことはしない。
夫婦は戸惑う。でも、受け入れる。彼らが何を隠し、どう生きてきたのかは、ここには描かれない。訪問者の2人が本当の娘とその弟なのかも、不問に付す。必要なことは事実ではなく、今ある現実なのだ。それを穏やかに受け止めることが大切なことなのだ。ここに描かれる不条理の意味を追いかけるのではなく、静かにそれをありのままで受け止めて、そこで生きる2人の姿を見せること。それが何よりも大事なことではないか、と当麻さんは考える。
この作品が、当然のことだが、ちゃんと当麻さんらしい、潔い芝居に仕上がったことがうれしい。