極彩色の見世物芝居だ。華やかで艶やか。元禄時代の大坂。2つの芝居小屋を舞台にして、ふたりの花形役者が火花を散らすラブストーリー。なぜか、そこに平成の力士(片岡百萬両)が九十九神に見込まれて、タイムスリップ。彼ら2人の恋を見届ける。
片岡演じる天道虫をストーリーテラーにして、お話は展開する。本来なら彼がこの物語の主人公のはず。最初は彼の話から始まるし。でも、元禄時代に彼がやってきてからは、なぜか彼の存在は背景に沈む。結局主役の座は、ふたりの花形役者であるシュテン(山浦敦)とマホロ(中村真利亜)に譲る。そのままラストを迎える。片岡は2人の恋の橋渡しですらなく、ただの傍観者の位置にとどまる。見ていてもどかしい。これは構成のミスではないか、とも思う。よくあるパターンと見せかけて、敢えてそうはさせないのはなぜか。
心中芝居は事件をモデルにして書かねばならないから、心中事件がなくては新作は書けない、という決まり。そのために心中をでっち上げなくてはならないという不条理。心中芝居を得意とする人気者シュラン(山浦)と、そのコピーをして人気を得るマホロ(中村)。命を削って芝居を書く男。女は男にしかできないはずの芝居を男のふりをして演じる。お上に知れたなら処罰されるが覚悟の上だ。大坂の町をにぎわす2つの芝居小屋。ライバル同士。男と女。
とてもわかりやすいエンタメ芝居なのだが、作、演出の坂本さんの想いがしっかり全編に込められてあるからこの単純なお芝居はストレートに観客の胸に伝わってくる。
「心中もの」御法度の時代に、それでも「心中もの」を書き続けるのは、観客が喜ぶからで、そのニーズの応えるのが、の仕事。死してなお書き続け、そんな彼の書く世界に憧れて、彼と戦う女。この2人の想いは、この世とあの世とをつないで、1本の芝居に結実する。死したシュテンの想いは、彼の影武者であるムカデ(北村守)へと引き継がれる。現実よりも芝居のなかに真実がある。
相撲の土俵(一応の主役である片岡は相撲取り)にも見える円形舞台の奥には花道が用意されている。普通なら舞台への足掛かりとして手前に作られるものだ。それがなぜか、舞台の先にある。ここでは花道は役者がやってくるためではなく、去ってくための仕掛けだ。彼らはこちらの世界からあちらへと消えていくためにこの花道を通る。それは心中の道行きのためを思わせる。
ここではないどこかへと、その道は通じている。芝居という虚構に命を賭けて戦うことでお互いの愛を成就させることが出来るのか。この屈折したドラマのたどりつく先が興味深い。
片岡演じる天道虫をストーリーテラーにして、お話は展開する。本来なら彼がこの物語の主人公のはず。最初は彼の話から始まるし。でも、元禄時代に彼がやってきてからは、なぜか彼の存在は背景に沈む。結局主役の座は、ふたりの花形役者であるシュテン(山浦敦)とマホロ(中村真利亜)に譲る。そのままラストを迎える。片岡は2人の恋の橋渡しですらなく、ただの傍観者の位置にとどまる。見ていてもどかしい。これは構成のミスではないか、とも思う。よくあるパターンと見せかけて、敢えてそうはさせないのはなぜか。
心中芝居は事件をモデルにして書かねばならないから、心中事件がなくては新作は書けない、という決まり。そのために心中をでっち上げなくてはならないという不条理。心中芝居を得意とする人気者シュラン(山浦)と、そのコピーをして人気を得るマホロ(中村)。命を削って芝居を書く男。女は男にしかできないはずの芝居を男のふりをして演じる。お上に知れたなら処罰されるが覚悟の上だ。大坂の町をにぎわす2つの芝居小屋。ライバル同士。男と女。
とてもわかりやすいエンタメ芝居なのだが、作、演出の坂本さんの想いがしっかり全編に込められてあるからこの単純なお芝居はストレートに観客の胸に伝わってくる。
「心中もの」御法度の時代に、それでも「心中もの」を書き続けるのは、観客が喜ぶからで、そのニーズの応えるのが、の仕事。死してなお書き続け、そんな彼の書く世界に憧れて、彼と戦う女。この2人の想いは、この世とあの世とをつないで、1本の芝居に結実する。死したシュテンの想いは、彼の影武者であるムカデ(北村守)へと引き継がれる。現実よりも芝居のなかに真実がある。
相撲の土俵(一応の主役である片岡は相撲取り)にも見える円形舞台の奥には花道が用意されている。普通なら舞台への足掛かりとして手前に作られるものだ。それがなぜか、舞台の先にある。ここでは花道は役者がやってくるためではなく、去ってくための仕掛けだ。彼らはこちらの世界からあちらへと消えていくためにこの花道を通る。それは心中の道行きのためを思わせる。
ここではないどこかへと、その道は通じている。芝居という虚構に命を賭けて戦うことでお互いの愛を成就させることが出来るのか。この屈折したドラマのたどりつく先が興味深い。