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映画・演劇のレビュー

『共犯』

2015-08-04 20:11:53 | 映画

昨年の僕のベストワン映画『光にふれる』の監督チャン・ロンジーの新作である。今回彼は高校生たちの青春映画に挑んだ。しかし、日本のマンガ原作による安直な映画化作品のようなものとは一線を(なんなら二線も)踏み超える作品だ。『あの頃君を追いかけた』のようなパステルカラーの青春映画でもない。どちらかというと、エドワード・ヤン(・ドウチャン)の『クーリンチェ少年殺人事件』に近い。これは重くて暗い映画になる資質は十分に兼ね備えた作品なのだ。しかし、そうではない。この暗いお話は、明るい日射しの中で語られる。

光と影は裏腹で、ほんの少し角度を変えて、状況を転じたなら、まるで別のものとなる。この映画の3人の男の子たちも、あんな出会いをしたにもかかわらず、そこから友情を育てることも可能だった。孤独で誰とも心を交わすことができなかった少年が同じような境遇だった少女の自殺現場から、それをたまたま目撃したほかのふたりの男子とこの事件を共有することで、仲間意識を抱き、共に行動をすることになる。初めて出来たこの「ともだち」を失いたくないから、彼は事件をでっちあげる。それがとんでもない事態を引き起こす。自分の死、である。

彼の事故死が、3人の関係を壊す。ばらばらになった彼らが真相にたどりつくまでのドラマが、死んだ彼女を巡るドラマと相俟って、この何のつながりもなかったはずの男女6人の高校生のドラマを形作る。今までこういうパターンのドラマってなかった。この危ういつながりから生じるドラマには、はっとさせられる。

彼らひとりひとりが抱える孤独の先には何があるのか。少女が死んだのはなぜか。ほんとうに自殺だったのか。そこをもっとミステリアスに描いてもよかった気がする。これでは少し単純すぎる。彼女の死を起点にして、すべてが始まるのだが、彼女のお話はおざなりにされて、終わる、ほんとうなら、最後にもう一度彼女に戻ってくるべきだった。彼女はなぜ死ななければならなかったのか、に。

彼女の孤独は、いじめられていた少年の心情へと伝染する。彼は自殺現場を目撃するという体験を通して(「共犯」を通して)仲間を作る。だから、彼らを共犯者にしなければならなかった。危うい関係をより強固なものにするために。でも、それは悲しい。彼は、何か仕掛けなければ本当の友だちなんか作れない、という前提でしか行動を起こせないからだ。

彼の死は事故でしかない。だが、共犯者である彼らはそれを事故にはできない。先の少女の自殺の直後の死、という事態は、少年の死をただの事故とするには重すぎた。ひとりの少年は頑なに口を噤む。もうひとりの少年は逃げる。

知らない少女の死ではなく、仲間の死。でも、2人は彼のことを何も知らない。だって、この事件までは知らない者同士だったからだ。死んだ少女を脅していた少女をでっちあげる、といういたずらは、自身を死に至らしめる。偶然の事故なのだが、そうは思えない連鎖だ。死んだ少年の妹は兄の死の真相を知りたい。しかし、真実は死んだ兄をさらに追い詰めることになる。

ひとりぼっちだ。誰もいない。心を閉ざす。自分を追い詰める。その先にあるのは何なのか。彼らの「闇」を心の弱さだ、なんてわかったようなことで説明されるのは心外だ。みんなひとりだ。さびしい。でも、なんとかして生きていこうとする。「誰か」とつながれたなら、こんなことにはならない。しかし、簡単ではない。たとえ、誰かと一緒にいても、孤独は埋められない。それを甘えだ、なんて知ったかぶりしないで欲しい。そんなふうにいえるあなたには、きっとわからない。ほんとうの孤独というものが。

この映画は何も語らない。わかりやすい答えなんかに何の意味もないことを監督であるチャン・ロンジーはよく知っているからだ。池の中で起きたことは誰にもわからない。それはもがき苦しむ彼らの心情そのものだ。冒頭のクレジットと、ラストは呼応する。そこから始まりそこに帰る。


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