塚本晋也監督の最新作が大岡昇平原作『野火』だなんて、本気か、と最初は驚いた。こういう文芸映画に彼が挑むのはなぜだ、と。これは明らか今までの作品とは一線を画する、ように思えた。しかし、実際に映画を見ればそうじゃないことは明白だ。これはやはり、正真正銘塚本映画だ。残酷で、怖い。戦争がそういうものであることなんて、わかりきったことではないか、と思う。なのに、そうは思いもせずに、この映画を「文芸映画」なんて先に書いた。当然、そうじゃない。
原作には忠実だ。だが、これを思索的で観念的な映画にすることも出来る。もちろん、そんなことしない。戦争とは何か、なんてここで語るまい。そうじゃない。これは、まず事実から目を背けない映画だ。これを見て残酷すぎるなんていうのは綺麗ごとだ。えげつなさすぎる。衝撃的な演出は取ってつけたようだ、なんて、いう人がいたなら、だからダメなのだ、と言おう。ウジが湧いて、腐って、異臭を放ち、吐き気がする。そんなものじゃない。人肉を食べる、というショッキングな内容を前面に押し出すのでもない。そんなこと、周知の事実だ。映画はもっと、その先に目を向ける。観念的な地獄めぐりでしかないと、コッポラの『地獄の黙示録』は言われた。そんな轍は踏まない。逃げないからだ。生理的不快感なんてものともしない。当然最初からこれは心地よい映画なんか目指してもいない。
何も語らず、黙したまま。何も描かず、すべてを描く。説明を排除した。これがどこでの何のための戦争なのか(戦争ですらないのか)それもどうでもいい。この恐怖の世界で彼はただ呆けたように言われたまま、生きる。病院(あれがはたして病院と呼べるものなのかはともかく)に行け、と言われれば、行く。帰れ、と言われれば帰る。自分の意思がないのか、と言われれば、そうじゃない、と彼の代わりに僕が答える。だって、彼は何も言わないからだ。戦況はどうなっているのか、なんて誰も知らないし、知っていたとしても彼らなんかには知らされない。
何の前触れもなくいきなり爆撃が生じ、たくさんの死体が出来る。何が起きたのか、わからないくらいに突然だ。そして、すぐに終わる。気まぐれとしか言いようがない。敵の攻撃がちゃんとした目的下で行われているようには思えない。わけのわからない恐怖は、ホラー映画に似ている。今までも塚本映画はそういうものを描いてきた。そういう意味ではこれはいつもの彼の映画だ。しかし、これが1945年のフィリピンでの出来事であることが、今までの彼の映画との違いだ。戦争映画ではない。戦場でのドキュメントと言い切るのもはばかられる。じゃぁ何なのだ。これはわけのわからない恐怖である。夢なら覚めて欲しい。だが、夢なんかじゃないことは、誰よりも本人が自覚している。
すべてが終わった後、故国に戻り、日常の中にいる彼が過ごす時間が描かれる。しかし、もうそこには安心はない。平和で静かな場所にいても、落ち着くはずもない。思い出す。あのときのすべてを。それを作家である彼は小説に書く。そうすることで、自分のリアルを認識できる。悪夢をよみがえらせるのではない。実感するのだ。あの時の自分というものを。