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映画・演劇のレビュー

『百花』

2022-09-10 16:37:12 | 映画

先日原作を読んでいたく感動した。これは小説家川村元気の新境地だと思う。当然、この小説を映画会社が目にとめる。ヒットメイカーである敏腕プロデューサー川村元気が映画化するという展開か。(でも、今回彼はプロデューサーではないけど。)で、監督は誰なのか。なんと川村元気本人だ。どうしても自分の手で映画化したかった、という切実な願い、なのか。そのへんのところはわからないけど、まぁ、きっとそうだろう。本人はそうは言わないだろうけど、明らかだ。そんなこんなで、これは川村元気監督第1回作品である。

あえて、わかりやすい作り方をしなかった。せりふも極端に減らした。原作を読んでなければ、細部はわかりにくいかもしれない。でも、そんなこと気にしない。映画はことばではなく、映像ですべてを語るべきだとでも思ったのか。でも、残念ながら語り切れてはいない。表現は空回りしている。正直言うと原作には及ばない。原作のよさはきちんと説明しきれていたところにある。でも、終盤の日記を読むところから語りすぎるけど。

でも、映画は語らないことで、最初から答えが出てしまっていて映画としての展開がない。「半分の花火が見たい」という謎の部分の答えが最初から出ているのだ。映画はほぼ冒頭近くから「半分の花火」ということばに導かれていく。原作は必ずしもそうではなかった、はずだ。1年間の不在の時間も映画では生々しすぎる。永瀬正敏演じる男の存在にリアリティがない。小説ではこの男は実際には出てこない。日記の中に描かれるだけだ。だから、母親のイメージとして描かれた。そこは大きな違いだ。

さらには菅田将暉演じる薫という男が、母親に対してどういう想いを抱いていたかが、言葉にしないけど、単純すぎて彼の心の揺れが描き切れていない。バランスの問題だ。映画はあくまで主人公は原田美枝子演じる母親の側にある。(クレジットでは菅田のほうが先に表示されてあるけど)ふたりは対等、あるいはあくまでも菅田の側から描かれているべきだった。小説のように。なのに原田が前面に出てしまった。

両者の均衡した関係が緊張感を高めるはずだったのに、そうはならなかったのは明らかに台本、演出のミスだ。原田の圧倒的な存在感に拮抗できるだけのものを、息子である菅田に持たせるべきだった。そこでも失敗している。仕事と妻の出産(生まれてくる子への想い、不安)という目の前にある課題と向き合いながら、それ以上の比重で認知症を患う母親と向き合うことになり、彼は心身のバランスを崩していく。彼が壊れていくのを食い止めるのは、妻(長澤まさみ)なのか、母なのか。映画が描かなくてはならなかったところはそこなのだ。

単純なお涙頂戴にはならないのは必至だが、言葉少ない映画は描くべき課題を追求しきれていない。この映画の答えは、あの日の半分の花火を忘れていたなんていう甘いものではなかろう。阪神淡路大震災で被災したのは息子を棄ててきたことの報いだ、と思い再び子供のもとに帰ってくる、という展開は安易だ。そこは原作を読んだ時にも思ったけど、映画はそのへんも曖昧にしたまま見せていく。明確にする部分と曖昧なままでいい部分とのバランスも悪すぎる。だからこれには感動できない。

ただ母親への違和感はうまく表現できている。それだけにその違和感がどこから来るのか。どこに向かうのか、そこをもう少しきちんと描けたなら原作とは別の意味での展開が可能だったはずだ。意欲作だけに悔しい。


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