ただひたすら座禅を組むだけの映画だ。こんなことだけで2時間強の時代劇大作を成立させていいのだろうか、と不安にさせられる。一応これは娯楽映画だよね。角川映画で一般の劇場で公開もされてるし。
なのに、今見てきたこの映画はたいした見せ場もなく、ひたすら座禅。だいたい最初の30分ほどが、中国のシーンなのだが、みんな中国語をしゃべってるのだ。それって当たり前の話だが、今までのこの手の日本映画の歴史大作には、こういうケースはなかった。必ず中国人は日本語を話す、というのがパターンだった。『敦煌』も『天平の甍』もみんなそう。なのに、この映画の中国人はみんな中国語をしゃべる。もちろん我らが道元(中村勘太郎)も、なめらかに(たぶん)しゃべる。でも、中国シークエンスのメーンの中国人たちはなぜか日本人が演じる。笹野高史なんてかなりしゃべる。大丈夫だったのか?発音とか不備はないのか。なぜか、そんなことが気になる。ほんとうに役者は大変だ。
閑話休題。ぜんぜん関係ない話になった。だが、それがかなり気になったのも事実だ。それくらい映画に乗れなかった、ということかもしれない。そして、もう一点。この映画は、全編地味で、見せ場はない。なのに、これがそこそこヒットしたらしいが、それって、なぜだ? 気になる。押しつけがましさが皆無なのはいいと思う。内田有紀がちょっと嘘くさいがまぁ、許す。でも、それだけで観客の心を捉えたとは思えない。
この映画を見ながら、これは修行ではないか、と思った。退屈スレスレで話が進むような進まないような。そんな映画だ。終盤の北条時頼(藤原竜也)との部分はクライマックスなのだが、ここでもなんかぼんやりしている。もっと息詰まる緊迫感のある対決になるか、と一瞬期待したのに、やはりあっさりだった。これはボケた映画なのかと思わされるが、高橋伴明監督はバカではない。
彼には、道元という男を偉人として崇めるような映画にする気はさらさらない。求道的な生き方ではなく、ただあるがままに生きるという教えを守り、そのままに生きる姿を追う。その結果こういう映画に成らざる得なかったということだ。
呆れるくらいに愚直で、ただひたすら座禅をして、悟りなんかには達しない。たとえそれでもいい、そんな覚悟が潔い。偉そうで啓蒙的な映画ではないのがいい。宗教映画というよりも、無骨な男の生涯をただ淡々と見せただけの映画。ここまで芸のない映画も珍しい。だが、それこそがこの映画の取り柄かもしれない。見終えて、ここまで書いたくせに、けっこう気に入っているのも事実だ。
なのに、今見てきたこの映画はたいした見せ場もなく、ひたすら座禅。だいたい最初の30分ほどが、中国のシーンなのだが、みんな中国語をしゃべってるのだ。それって当たり前の話だが、今までのこの手の日本映画の歴史大作には、こういうケースはなかった。必ず中国人は日本語を話す、というのがパターンだった。『敦煌』も『天平の甍』もみんなそう。なのに、この映画の中国人はみんな中国語をしゃべる。もちろん我らが道元(中村勘太郎)も、なめらかに(たぶん)しゃべる。でも、中国シークエンスのメーンの中国人たちはなぜか日本人が演じる。笹野高史なんてかなりしゃべる。大丈夫だったのか?発音とか不備はないのか。なぜか、そんなことが気になる。ほんとうに役者は大変だ。
閑話休題。ぜんぜん関係ない話になった。だが、それがかなり気になったのも事実だ。それくらい映画に乗れなかった、ということかもしれない。そして、もう一点。この映画は、全編地味で、見せ場はない。なのに、これがそこそこヒットしたらしいが、それって、なぜだ? 気になる。押しつけがましさが皆無なのはいいと思う。内田有紀がちょっと嘘くさいがまぁ、許す。でも、それだけで観客の心を捉えたとは思えない。
この映画を見ながら、これは修行ではないか、と思った。退屈スレスレで話が進むような進まないような。そんな映画だ。終盤の北条時頼(藤原竜也)との部分はクライマックスなのだが、ここでもなんかぼんやりしている。もっと息詰まる緊迫感のある対決になるか、と一瞬期待したのに、やはりあっさりだった。これはボケた映画なのかと思わされるが、高橋伴明監督はバカではない。
彼には、道元という男を偉人として崇めるような映画にする気はさらさらない。求道的な生き方ではなく、ただあるがままに生きるという教えを守り、そのままに生きる姿を追う。その結果こういう映画に成らざる得なかったということだ。
呆れるくらいに愚直で、ただひたすら座禅をして、悟りなんかには達しない。たとえそれでもいい、そんな覚悟が潔い。偉そうで啓蒙的な映画ではないのがいい。宗教映画というよりも、無骨な男の生涯をただ淡々と見せただけの映画。ここまで芸のない映画も珍しい。だが、それこそがこの映画の取り柄かもしれない。見終えて、ここまで書いたくせに、けっこう気に入っているのも事実だ。