この映画は一体何なんだ、と突っ込みを入れたくなる。ハードボイルド・コメディってもう何が何だかわけがわかりません。でも、そのわけのわからない不思議な世界がこの作品の魅力なのだろう。これはひとりの老人の見た妄想、かもしれない。70年安保の時代から50年が過ぎて、若者だった彼らはもう70代の老人になった。あの頃、何を思い、何を感じ生きたかなんてもう忘れた。いや、まだあの頃を引きずっているのかもしれない。夜の盛り場を舞台にしてそこで生きる男のロマン。
ここに描かれるドラマは、もしかしたらすべてが妄想でしかないのかもしれない、と途中から思い始めると、とても自由になる。最初はこの男は何者なのか、とリアルに読み取ろうとして、首をひねらざる得なかったのだが、何者でもいいのだ、と思うと楽になる。売れない小説家、という設定に縛られることもなく、実は殺しにかかわるやばい顔を持つ、というのも、どこまでが本当でどこからが妄想なのか、わからないけど、そんなことはどうでもいいのだ。生きていることが夢のようなものだ、と思うことですべてがOKになる。石橋蓮司が気取ってハードボイルドを演じると、それが様になっているのに、なぜか、笑える。岸部一徳と桃井かおりとの3角関係も、それ自身が象徴的で、彼らがこの50年以上の日々をつるんでいたのも、現実だと思えない。
石橋の妻である大楠道代が彼の秘密を探って夜の街を徘徊し、彼の所在を追いかけるシーンからお話は現実味を失い、シュールな展開を見せるのだが、そこがまた素晴らしい。夫の夢の世界に現実の妻が入り込んで行き、何十年も一緒にいたはずなのに、初めて彼のもう一つの顔を知り、そこで同じ時間を共に過ごす。
リアリズムに縛られない自由奔放な語り口は、石橋蓮司のキャラクターの成せる業だろう。彼のどこまでが本気でどこからが虚構なのかわからない微妙な存在感がこの危うい映画を支える。男のロマンを堂々とテレることなく、でも、少しだけ恥ずかしそうに演じる。
一度も撃ってないけど、彼らはずっとここにいた。それを簡単に男のロマンと口にするのはなんだか恥ずかしい。その恥ずかしさこそがこの映画の魅力なのだ。なりたかった自分になるため、小説を書き続ける。小説のロマンを実現するために、現実に生きる。でも、彼の生きた夜の世界はそれがそのまま彼の小説だったのかもしれない。彼は伝説のヒットマンではない。でも間接的に殺しにかかわっていたようだ。でも、それだってどこまでが本当でどこからが妄想なのか定かではない。その危うさがこの映画の面白さではないか。そんなわけのわからない心地よさに酔う。