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映画・演劇のレビュー

『危険な関係』

2014-10-30 22:23:57 | 映画
ホ・ジノがなぜ、こんなただの恋愛ゲームを映画にしたのか、よくわからないけど、彼のことだから、きっとそこにも何らかの意味を見出したのに違いないと思い、それが「どこ」にあったのかが知りたくて、この映画を見た。というか、ホ・ジノの映画だから、それだけで絶対に見たかった。公開時にちゃんと劇場で見るつもりだったが、タイミングが合わずに断念しただけ。

でも、このラクロの小説の映画化というのは、やはりさすがに食指がそそられなかったことも事実だ。どうして何度となくこの話は映画化されるのか。僕にはわからない。(今回も含めると、もう5回くらい見た気がする)それにしても実につまらない話だ。人の心を持て遊ぶようなことを楽しむ輩を主人公にする。最低だ。こんな話を誠実なホ・ジノがなぜ引き受けたか。どこにその意味があるのか、見極めたい。

1931年上海。日中戦争に突入する直前の時代、たくさんの人たちが不安を抱え、生き残るために必死になっていた時代。町では飢えた貧しい子供たちが物乞いをする。そんななか、上流階級の男女の恋の遊びを描く。大富豪で、女を次々に手玉にとり、楽しんでいるドンファンをチャン・ドンゴン。彼とともに恋愛遊戯を楽しむ貴婦人セシリア・チャン。この二人が主人公だ。彼らが今回、ターゲットにしたのは、誠実で、ピュアな心を持つ未亡人チャン・ツイーイー。貞淑な彼女を落とすことが今回のふたりの課題だ。そこに、若い男女の幼い恋を絡ませて描く。もちろん、彼らも、退屈な大人たちの犠牲、というか、餌食になる。

ためいきが出るように美しい風景や、贅沢な屋敷、調度に囲まれた裕福な暮らしを背景にして、(女たちも、とても美しく撮られてある)無意味な恋のかけひきが描かれる。そこにはなんら意味はない。ただの退屈しのぎ。やがて、彼らは自分たちがいかに愚かで醜い存在だったのかを知る。真剣に人を好きになるなんてバカバカしいと思い、人の心を手玉にとり、平気で人を傷つけて遊んできたふたりが、自分の愚かさに気づく。でも、もう遅い。

ラスト20分がせつない。自分たちのせいで、自分自身が傷つく。(自業自得だ)自由に生きているつもりで、全くつまらない生き方をしていた自分の愚かさに泣く。彼らの対となる若い二人も同じだ。純愛を貫くわけではない。大人たちに頼り、身を持ち崩していく。
こういう薄汚い恋をこんなにも美しい映像で見せていくことで、本当の愛とは何なのかを描く。これはきれいごととしてではなく、ありのままの真実をとても素直に教えてくれる。そんな映画だったのだ。

人が人を想う、どうしようもない気持ちを、美しい風景の中で描きてきたホ・ジノにとっては、この映画もまた、従来の作品と結果的には同じことだったのかもしれない。『8月のクリスマス』『春の日は過ぎゆく』の2本で映画史上最高の監督になった彼があれらの作品を超える映画を作ることはもうない。それは、ホウ・シャオシェンが生涯『恋恋風塵』を超えられないのと、同じだ。だが、それでも人生は続く。だから、彼らは今も映画を作る。


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