今年の1本目の芝居は無名劇団だった。ウイングの1月番組で、僕はそこで初めてこの劇団を見た。なかなかおもしろかった。こういうミステリタッチの作品を提示するんだ、と感心した。しかも、とても真面目。僕はまじめな人は好きだ。(ふまじめが魅力の劇団も確かにあるけど)まじめは、ふまじめよりも難しい。しかも、つまらなくなる場合も多々あるからだ。まじめなのにおもしろいというのは実はリスクが高い。まじめすぎて、少し自滅していたけど。
さて、今回の作品は、前作とは趣を変えて、アングラチックな設定と展開を見せる。川端康成の『掌の小説』のワンエピソード『雨傘』を下敷きにして、彼がなぜあの作品を書いたのか、その背後へと妄想を広げる。劇中劇として演じられる雨傘のエピソードと、『雨傘』を題材にして失踪した劇団の劇作家である男が何を描こうとしたのかを、残されたメンバーが夢想するエピソードが交錯する。
いや、夢想ではなく、彼女たちは、彼の代わりに作品を作らなくてはならないのだ。次回作の公演は迫っている。稽古も進んでいる。しかし、彼はいないから、台本もない。ゴーストライターとして代わりに書くのだが、彼がしたかったことなんか、わかるはずもない。結局は自分の作品を書くしかない。しかし、それは、彼の作品ではない。観客も劇団員も欺く行為となることに、苦しむ。
舞台上手には、行方不明になった男が亡者としてずっとこの芝居を見ている。下手では、ゴーストライターとなった制作の女の子が必死に台本を書いている姿を提示する。そんな両者に挟まれた舞台では(そこは彼らの劇団の稽古場)役者たちが稽古に励む姿が描かれる。稽古が始まると、芝居の主人公である少年と少女が登場し、役を無言で演じる。
この実験的な構成と構造はおもしろい。だが、それが思ったような効果を上げていない。これでは、ただのこけおどしにしかならないのだ。それらが機能的に作用していかない。このスタイルが作品を後押ししきれていない。
言葉をテーマに据えて、失われた言葉を探す。独り歩きするする言葉に戸惑う。ネットを通して、劇団が思いもしないところへと連れて行かれる。小説の男女は本当はどうなったのか。この芝居はどこに向かうのか、失踪した主宰はどうなったのか。幾つもの謎が最後にひとつのなったとき、どこにたどりつくか。よくわからない。
これは見えないものに、怯えるのではなく、そこに果敢に立ち向かう勇気を描こうとしたのか。本当のところが、よくはわからないけど、でも、この作品自体は嫌いではない。
さて、今回の作品は、前作とは趣を変えて、アングラチックな設定と展開を見せる。川端康成の『掌の小説』のワンエピソード『雨傘』を下敷きにして、彼がなぜあの作品を書いたのか、その背後へと妄想を広げる。劇中劇として演じられる雨傘のエピソードと、『雨傘』を題材にして失踪した劇団の劇作家である男が何を描こうとしたのかを、残されたメンバーが夢想するエピソードが交錯する。
いや、夢想ではなく、彼女たちは、彼の代わりに作品を作らなくてはならないのだ。次回作の公演は迫っている。稽古も進んでいる。しかし、彼はいないから、台本もない。ゴーストライターとして代わりに書くのだが、彼がしたかったことなんか、わかるはずもない。結局は自分の作品を書くしかない。しかし、それは、彼の作品ではない。観客も劇団員も欺く行為となることに、苦しむ。
舞台上手には、行方不明になった男が亡者としてずっとこの芝居を見ている。下手では、ゴーストライターとなった制作の女の子が必死に台本を書いている姿を提示する。そんな両者に挟まれた舞台では(そこは彼らの劇団の稽古場)役者たちが稽古に励む姿が描かれる。稽古が始まると、芝居の主人公である少年と少女が登場し、役を無言で演じる。
この実験的な構成と構造はおもしろい。だが、それが思ったような効果を上げていない。これでは、ただのこけおどしにしかならないのだ。それらが機能的に作用していかない。このスタイルが作品を後押ししきれていない。
言葉をテーマに据えて、失われた言葉を探す。独り歩きするする言葉に戸惑う。ネットを通して、劇団が思いもしないところへと連れて行かれる。小説の男女は本当はどうなったのか。この芝居はどこに向かうのか、失踪した主宰はどうなったのか。幾つもの謎が最後にひとつのなったとき、どこにたどりつくか。よくわからない。
これは見えないものに、怯えるのではなく、そこに果敢に立ち向かう勇気を描こうとしたのか。本当のところが、よくはわからないけど、でも、この作品自体は嫌いではない。