石井岳龍監督が復帰後、初めてアクション映画に挑んだ作品。それだけに期待は高まる。評判はよかった(ようだ)。だが、僕は乗れなかった。『シャッフル』のように走るだけの映画か、と思わせる滑り出しは快調だ。だが、捕まってから、また、逃げ出して、追われて、という展開にまるで緊張感がない。これはふざけているのか、と思うくらいに、危機感のない描写で、同じところをぐるぐるまわるばかり。
これは疾走するのではなく、停滞する映画なのだ。世界観の広がりもない。主人公が立ち向かう悪の根源が実は彼の兄で、彼が殺したいと望んだ父親をすでに兄が殺していた、という展開には、まるで衝撃がない。それはいったいどういうことなのか。
戸籍を失い、この世に存在しない人間としてここにいる自分が、自分自身を取り戻すまでを描く映画のようなのだが、そんな作品のテーマもどうでもいいような見せ方。一体何がしたくて、この映画を作ったのか、まるで見えてこない。
『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市』の頃のような映画を期待したわけではない。だが、こんなにも、形骸化した映画を見せられると、それってなんなの、と思うしかない。長いブランクから帰ってきた石井監督は以前の爆発するような情熱を失い、ただ、漂うように生きる人たちを描く。
綾野剛と染谷将太という今を代表するふたりを主人公にして、彼らの対決をクライマックスに持ってくるアクション映画のスタイルを踏襲しながらも、彼はそういう単純な「対決もの」の映画なんか信じてはいない。
自分をこんなところへと追い詰めた憎むべき存在としての父親の姿がここまで希薄なのかなぜか。憎しみをぶつけるところに生まれるパッションがアクション映画としての根幹をなすはずなのに、そこを言葉の上だけで描き、実は簡単にスルーしている。要するにこれは、空虚なのだ。
そして、実は、最初から石井監督は「そんなもの」を望んでいたのかもしれない、ということに気付く。今の彼にとって、アクションのためのアクションにはなんの魅力もない。怒りや情熱のその先にあるもの。心の空洞を見つめるため。
それは最新作『蜜のあわれ』でも、同じだ。主人公の老人は若い女を愛しているわけではない。ただ、ここに留まるための口実が欲しいのだ。生きている意味なんていうのでもない。そんなことに拘るほど彼は若くはない。というか、もう死にかけ。でも、まだ、死んではいない。
わけのわからないものと向き合い、そこにある何かを摑もうとしている。それが何なのか、彼自身にもわからないのかもしれない。思い返せば、あの長いブランクのきっかけになった大作映画『五条霊戦記』で、彼はすでに、義経と弁慶が戦う映画ではなく、戦った後を描いていた。(たぶん、、、)
10代で作った8ミリ映画『高校大パニック』に始まる彼の長い長い戦いがどこに行きつくのか。その行方はまだ、遥として知れない。
『ソレダケ』が描いた些細なもの。だが、そこには、この先で石井監督が描こうとするものへの萌芽がみられる。(ような気がするのだが)