76歳。両親のいない家での一人暮らし。ゴミ屋敷となった家。長女である彼女の死。主人のいなくなった家に帰ってくる兄弟姉妹たち。7人姉弟だ。彼女が倒れて入院した後、まだ死んでいないうちから、家の片付けをする。そんな風景から始まる。
在日の家族。長姉の葬儀を巡る物語。どこにでもある、ささやかな出来事。それを普遍的な次元へと昇華させることなく、あくまでも個人的な出来事のままで、自分たちのありのままの日常の延長線上にある風景として描いていく。そのさりげなさが身上だ。特別でも、特殊でもない。ましてや一般的なものでもない。そんなかけがえのないもの。
ここまでありのままを見せることに何の意味があるのか、と心配になるほどさりげない。敢えて作品世界を広げないことで、大切なものを、しっかりと伝える。今、そしてこれから、子どもたちの世代が両親や祖父母の世代を見て何を感じるのか。
今では父親世代になりつつある金哲義の子供たちに向ける視線が前面に出てくる作品だ。今まで、自分ことや、父母の世代に向けていた目を、反対方向に向け直して見つめる。彼らの目に、未来はどんなふうに見えるのだろうか。ここ数作品子供の視線をしっかりと視野に入れる作品が目立ってきた。この作品も含めて今後彼が次世代をどう描くのか、興味は尽きない。
ただ、「知らんかった時代を、どんな言葉で見送ればいいんやろ?」というチラシにあるコピーがもっと前面に出てくるのかと、思ったが、そこまではシフトしなかった。ゆっくりとそういう視点を取り込みながら、少しずつ変わっていくMay の世界観を僕たち観客も一緒に見守っていきたい。何かを押しつけるのではなく、彼らの想いに寄り添い、彼らの見ようとするこの先を同じように見つめていくことで自分自身の未来も見えてくる気がする。
最初にも書いたように、この作品は、自らの体験を(母方の伯母の死)そのまま(たぶん、ここで交わされた会話も含めて)再現したのだろう。そこには出来るだけ創作は入れないように配慮したはずだ。きちんと、あのことを見つめ直して提示することによって、見えてくるものを芝居にしようとした。全体のバランスはあまりよくないし、作品自体は小品になるが、その誠実さが、この新しい可能性を切り開く。