金哲義は、というかMayは、他の劇団とは別だ。彼らの確固とした世界は劇団というよりも演劇を通した「戦い」である。自分たちをどこまで突き詰めていくか。演劇という表現を使い、自分自身、そして自分たち民族の生きざまがそこには指示される。これが普遍性を獲得するのはその一点に尽きる。今までの作品もこれからの作品もきっと同じだ。自分とは何なのか。世界との確執の中で、どこに向かうのか。
今回取り上げたのは北に帰る旅だ。20数年振りで、北朝鮮、ウリナラに行く。「祖国」への帰還。だが、その旅は幸せな旅ではない。重い覚悟を秘めた使命だ。北で暮らす親類との再会。彼らのためになけなしのお金を持ち帰る。渡航にはそれだけでたくさんの費用がかかる。お金の問題ばかりではない。持てる限りのお土産を抱え、彼らに期待に応えるための重圧を抱え、大阪からピョンヤンへ。彼らの故郷であるチョンジンへ。キム・ソンファ(柴崎辰治)は、ひとり大阪の残した父を始めとする親類縁者を代表して渡航する。
これは彼の旅を描く。思いの外、静かな作品だ。もっと激しい葛藤が描かれるのか、と覚悟しながら見たのだが、実に穏やかに描かれる。だが、その表面的な穏やかさこそが、怖い。誰もが本当の想いをストレートにぶつけない。心の奥に秘めたまま、でも、ギリギリの緊張の中で、ヒリヒリする痛みとともに、ほんの10日ほどに日々を過ごす。日本から持って行った30万は、家族に分配するため。本当なら、もっとたくさんのお金を持ち帰りたい。きっと期待されている。しかし、今はこれがぎりぎりだ。チョンジンで待つ親戚たちは何も言わない。だが、分配はソンファに任せると言われる。そんなこと、できるわけがない。祖国の従姉妹たち、伯母は暖かく迎えてくれる。だが、それでも彼は針のむしろだ。
金哲義の芝居を見ながら、まるでテオ・アンゲロプロスの映画を見ているような気分にさせられる。世界を代表する巨匠と並べられたら、恥ずかしいだろうが、この求道的な旅のドラマは、テオの作品を貫く緊張感と似ている。特に、今回の作品の要である初めて会う従姉妹の幼い息子との関わりを描く部分がアンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』を思わせる。未来を担う世代に託す、不条理だらけのこの世界のそんな未来への希望。たどりついたのは、そこだ。「冷たく小さなその手に希望だけが溢れますようにと、僕は祈った。」というチラシに書かれた一文、そして、この作品のタイトルに集約されるもの。それがすべてだ。
重い芝居である。そんなことは見る前からわかりきったことだ。そして長い。以前の3時間の作品と較べたなら2時間20分だから、短いと言う人がいるかもしれないがそういう物理的な時間の問題ではない。この作品の内容から鑑みて1時間50分くらいの仕上がりが適正であることは、わかっている。なのに、ひとつひとつを丁寧に描くからこうなる。そして、しつこい。粘っこい。それは意図してそうした。金哲義のたくらみだ。彼にはそれが必要だった。スマートに作ることなんて彼にとっては簡単なことだ。でも、しない。完成度なんかよりも、ずっと大切なことがある。これを通して描きたいことがある。伝えたいことがある。
日本人はもうほとんど意識しない。血の絆に拘り続ける。忘れるわけにはいかない。民族の歴史がそこにはある。差別された側は忘れない。「中国は嫌いだが、中国人が嫌いなわけではない」というせりふがあるが、その中国を日本に置き換えると、わかりやすい。いや、わかりやすいものなんか、必要ない。
ピョンヤンで彼らの案内をする4人の案内人がいい。彼らの存在がこの作品に奥行きを与えた。彼らの誠実さに北朝鮮を象徴させる。そして、その先に倉畑和之演じる親類とのコンダクターの存在を置く。彼の不気味さ、狡さ。ソンファが出会う北の人たち。彼らを通して、このドラマは今の「祖国」の一端を提示する。簡単ではない。そんなことも、わかりきっていたことだ。
ソンファが焦燥の向こうで感じたもの。すべてはラストに収斂される。初めて出会った従姉妹の息子彼の掌に未来に託す。それは大阪で生きる自分の娘へとつながる。遠く離れたふたつの国。彼らの未来のために。