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映画・演劇のレビュー

劇団太陽族 『劇論 ~どこから来てどこへ行くのか~』

2015-11-15 21:31:40 | 演劇
若くして死んだ劇団員へのオマージュとして、彼の心を捉えた「芝居」って何なんだろうか、ということを、日本演劇史を紐解きながら描いていくという実験的な劇。普通のお話を期待した人には、幾分わかりにくいかもしれないけど、気にしないでいい。

だって、なんだかわからないけど、楽しめるはず。ダンスシーンもあるし、殺陣もある。そこそこ華やかで、でも、やはり少し間口は狭いかも。しかも、とても個人的なこと(太陽族の劇団員である米田嶺の死)を描いているし。見ながら少し複雑。

ある日の稽古場。ふたりの男が、なかなか来ない「O」を待っている。もちろん、これはベケットの『ゴドーを待ちながら』なのだが、そこから始まり、シェイクスピアの『ハムレット』の有名なせりふを巡る様々な劇作家の訳文比較を通して、日本の現代演劇の黎明から今までが描かれていく。笑えるエピソードを通して蘊蓄を傾ける。やがて、それは鈴木忠志に。さらには唐十郎と寺山修司経由で、岩崎正裕に至る。岩崎さんの話までたどりつくと、そこからは米田さんのことまでは一直線だ。

まさか、ここまで描くとは思いもしない。だが、岩崎さんは真面目だから、中途半端は出来ないから、やるのならとことん、やる。これはあまりに個人的な問題なのだが、それを普遍にしない。あくまでも個人的。だが、純粋に芝居が好きで、芝居とともに生きた名もない若い青年の死、そんな個人的なことが、誰もが感じたことになる。

みんな芝居が好きだ。でなくては、やらない。見ない。芝居がその力を発揮するのは、狭い舞台の上。小劇場の魅力はそこに尽きる。すぐそこで、役者がいる。汗が飛び散る。ここにも届く。想いが届くのだ。わかるとか、わからないとか、どうでもいい。ただ、すごい、と思えるだけで、充分なのだ。

この芝居を見ながら、そんな当たり前のことに改めて気付く。決して完成度の高い芝居ではない。(いや、芝居自体はとても完成度は高い、だが、ここに言うのは、お話としての完成度、である)だいたいそんなのを、ここで岩崎さんは求めてない。ミュージカルシーンまで用意されているのはご愛敬だが、そういうのも楽しい。以前『劇変』という芝居をここ(ウイングフィールド)で上演したけど、これはその第2弾。こういう一般受けしない素材を扱い、さらにマニアックでプライベートなもとに辿り着いたとき、ちっぽけな感傷ではない、この宇宙と地球を描く(あの舞台美術!)芝居のスケールに圧倒された。


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