大友啓史監督の『るろうに剣心』3部作は凄いと思った。あれだけの困難に挑みながらちゃんと目的に到達している。だから彼の映画は信じられる、と思った。だが、前作の『秘密』に続いて今回も、迷走している。ハードルが高いのは今までと同じだ。過剰すぎるハードルを用意して自分で自分の首を絞めるマゾヒストだ。だが、そうすることで、思いもしない次元にまで達する。その瞬間の感動は麻薬のような快感だ。(たぶん)
今回も、なにもそこまでしなくてもいいのではないか、と思うような展開を見せる。しかし、そうすると、そうするほど、映画はつまらなくなる。前半は面白かった。猟奇殺人の捜査をする刑事が、次の標的が自分の妻だと知った時、だんだんおかしくなっていく。それは、妻が殺されるかもしれないということへの恐怖ではない。この事件の直前に妻が息子を連れて失踪している。それは、事件とは関係ない。失踪ではなく、家出だ。自分が見ている前で、ふたりは出ていったのだから。しかし、その後も彼は妻子のことより事件のことばかりに気を取られていた。どうせ、ほとぼりが醒めたら帰ってくるはず、と高をくくっていたのだろう。そこに、事件の犯人が次に妻を殺す、という可能性が生じた時、何かが狂ってくる。それは刑事である彼への恨みとかではない。はずだった。
犯人のカエル男の狂気に取り込まれていく。狂気はカエル男だけではなく、この刑事のほうかもしれない。誰が正気で誰が狂っているのか。そんなこと、わからない。刑事はどんどん狂気に囚われていく。それすらカエル男の書いた筋書きなのか。映画の後半は犯人と刑事のタイマン勝負になる。ここからが、監督の腕の見せ所のはずだった。
小栗旬と妻夫木聡が究極のバトルをみせる、はずだった。なのに、映画はここから明らかに失速していく。特に犯人の屋敷に忍び込んだところからのクライマックスの部分にまるでリアリティがない。犯人が自分の書いたシナリオをどこまで実践できるのか、そこだけの執着しているはずなのに、そんな異常さが浮かび上がらないから、なんだか、ストーリー展開がご都合主義的なものになる。この異様な執着の意味が感じられない。なぜ、殺人アーチストである犯人は、この刑事を追い詰めたいと思うのか。彼の中に何を見たか。それが自らの破滅に繋がるにも関わらず、そこに突き進むのか。その部分に説得力がないことにはこの映画は意味がない。ここまでしながら、それが安直な終わり方にしか見えないのではもったいない。デビット・フィンチャーの『セブン』に匹敵するような映画を目指したはずなのに、こんな中途半端で退屈な映画に堕してしまったのは心外だろう。
今回も、なにもそこまでしなくてもいいのではないか、と思うような展開を見せる。しかし、そうすると、そうするほど、映画はつまらなくなる。前半は面白かった。猟奇殺人の捜査をする刑事が、次の標的が自分の妻だと知った時、だんだんおかしくなっていく。それは、妻が殺されるかもしれないということへの恐怖ではない。この事件の直前に妻が息子を連れて失踪している。それは、事件とは関係ない。失踪ではなく、家出だ。自分が見ている前で、ふたりは出ていったのだから。しかし、その後も彼は妻子のことより事件のことばかりに気を取られていた。どうせ、ほとぼりが醒めたら帰ってくるはず、と高をくくっていたのだろう。そこに、事件の犯人が次に妻を殺す、という可能性が生じた時、何かが狂ってくる。それは刑事である彼への恨みとかではない。はずだった。
犯人のカエル男の狂気に取り込まれていく。狂気はカエル男だけではなく、この刑事のほうかもしれない。誰が正気で誰が狂っているのか。そんなこと、わからない。刑事はどんどん狂気に囚われていく。それすらカエル男の書いた筋書きなのか。映画の後半は犯人と刑事のタイマン勝負になる。ここからが、監督の腕の見せ所のはずだった。
小栗旬と妻夫木聡が究極のバトルをみせる、はずだった。なのに、映画はここから明らかに失速していく。特に犯人の屋敷に忍び込んだところからのクライマックスの部分にまるでリアリティがない。犯人が自分の書いたシナリオをどこまで実践できるのか、そこだけの執着しているはずなのに、そんな異常さが浮かび上がらないから、なんだか、ストーリー展開がご都合主義的なものになる。この異様な執着の意味が感じられない。なぜ、殺人アーチストである犯人は、この刑事を追い詰めたいと思うのか。彼の中に何を見たか。それが自らの破滅に繋がるにも関わらず、そこに突き進むのか。その部分に説得力がないことにはこの映画は意味がない。ここまでしながら、それが安直な終わり方にしか見えないのではもったいない。デビット・フィンチャーの『セブン』に匹敵するような映画を目指したはずなのに、こんな中途半端で退屈な映画に堕してしまったのは心外だろう。