不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

フランケンシュタイナー『ふたり』

2006-11-07 19:28:09 | 演劇
 芝居をどう見せるのかは、とても大事なことだ。もちろんそれは芝居だけでなくすべての表現においても、同様である。

 この芝居を見ながら死ぬほど不愉快だったが、今落ち着いて振り返ってみると、この芝居が描こうとしたことや、いくつかのシーン、ドラマ展開には、興味深いものがあるのではないか、と思った。

 最初書き始めたメモにはこうある。
  史上最悪の2時間50分。こういうつまらないものを見た自分自身が情ない。自分の娘をレイプする両性具有の母親。そんな母を殴り続ける娘。父親は妻への仕返しとして、息子をレイプする。差別の問題や、スカトロとかまで描きながら、ただ過激なものを見せたいだけ。興味本位の姿勢が腹立たしい。スライドを使った字幕のくどさにも辟易させられる。テンポが悪すぎるし、だらだら続く1人よがりにもついていけない。(以下略)

 かなり感情的になってる。もちろんこのメモをブログで公開するつもりなんてなかった。最初はこの芝居のことはもう忘れて、無視するつもりだった。しかし、ほんの少し気持ちが変わったので以下、書き続ける。

 裸の女が怒鳴りながら暴れたり、見たくもない全裸の男たちが客席にまで乱入してきたりするのは、生理的に耐え難いが、この芝居が描こうとする暴力とエロスについての考察は全否定するつもりはない。

 両性具有の母親(男性器と女性器を持つ)が自分の娘のヴァージンを奪うことから始まる家庭崩壊劇。そんな中で、母親が本来の自分を取り戻そうとする物語。そう読めば納得のいく部分も多々ある。

 しかし、それをどう見せるかという点でこの作者は誤解している。暴力的とは暴力を暴力として見せることではない。同じようにナマの裸を見せることや、性描写に対しても同じだ。演劇という表現を使いどう見せるかを考えて欲しい。ストーリーに関しても同じで、思いつきをスタイルと勘違いしてる。

 僕は、この女の痛みをしっかり受け止めたいと思う。壊れていく家庭なんてものは、最初からなかったも同然だった。嘘偽りの家族であり、自分を隠して守り続けてきたものを、彼女の内なる暴力が破壊していく。その行為を通して彼女が解放されていくプロセスこそがこの芝居のテーマだったのではないか。彼女の内面に寄り添い、それを丁寧に見せながら、同時に周囲の狂った状況を対比させ、当たり前と思っていたものが崩れ去り、狂気でしかなかった彼女が真実を見つけ出す、そんな芝居が見たかった。


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『7月24日通りのクリスマス』 | トップ | 『天使の卵』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。