今年のHPFハイライトはこの1作に尽きる。よくぞまぁここまでやりきってくれたものだ。今という時代に向けて、これだけ熱いメッセージを声高に語りかけようとするお芝居を僕は知らない。そのストレートさは、この胸を熱くする。
70年安保なんて知らない世代に革命を語らせようとする総演出の山本篤先生は、その無謀さすら力に変えてしまう。見る前は独りよがりにすらなりかねない暴挙だと思えた。今の高校生に学生運動を語らせるなんてありえない、と思った。なのに彼女らは自分たちの言葉でそれを語ってみせる。ノスタルジーではなく、今に自分たちが、本気で自分たちのための戦いを繰り広げて見せるのだ。
時代設定は1999年。(この時点で、もう充分彼女たちには想像できない過去だろう)ノストラダムスの大予言も過ぎて、2000年問題に揺れていた頃、今よりほんの少し昔。1969年の学生運動で、機動隊に殴られてずっと昏睡状態にあった男が30年の眠りから目覚める。彼が夢見た革命の時代はとうに過ぎ去り、何に対しても無関心で、ただ自分の事だけ考える高校生が過ごす学園に、彼は復学していく。
47歳の男が、30年前の高校生活の続きを送る。時代の落差に戸惑いながらも、彼は自らの正義を貫いていこうとする。高校生が47歳のおやじを演じることに全く違和感がないことに驚く。しかも女子高生がやるのである。最初はさすがに変だろ、と思うが徐々に払拭されていく。それどころか、実に説得力がある。それは、彼女が現役の高校生だからだ。高校生の心を持った男を演じるには高校生が適任なのである。これは見た目の問題ではない。ハートの問題だからだ。山崎という男が30年後の未来で、高校生の心のまま生きていく姿をリアルに表現していく杉浦和世さんが素晴らしい。このリアリティーはオリジナルの山崎役を演じた中村雅俊ではとても表現しきれないのではないか、とすら思わせる。
生々しさが欠落することによって、この芝居の世界が持つ象徴性がより明確なものになる。女子高生たちが、男性も含めて、高校生を演じることの不思議なリアリティーの上に立ってこの芝居は作られていく。金蘭がやる以上それは当たり前のことなのだが、この芝居のポイントである高校生の気持ちをきちんと捉え、そこをベースにして、文化祭を自分たちの手に取り戻すための戦いという、何だか嘘くさいような出来事(今時の高校生は戦はない)に、学生運動の本来の理想を重ねあわすことで、彼らの夢見た革命の脆弱さと純粋さが伝わってくることになった。
これは信じられないような理想や夢を追いかけることについての物語である。もちろんそこにはきれい事だけではなく、とんでもない事実もある。それは1970年以降の歴史を見れば明らかなことだ。革命の理想がどんな風に潰えてしまったのか、それは浅間山荘事件ひとつでも説明できる。だけれども、はたしてそれだけなのか。彼らが最初に抱いていた純心な想いを簡単に否定していいのか。
この芝居が描こうとするのは、そんな「革命の理想と夢を忘れるな」という純粋な想いだ。1999年からたった8年しかたっていない今、もう既にあの頃ですら遠い過去になってしまっている。そんな時代からさらの30年遡って、この芝居は、従順で飼いならされた何も夢を見ないように見える今と言う時代を生きる人々に向けての熱いメッセージだ。
自らの中に眠っている本当の自分を目覚めさせよ。戦うべきものに対して、しっかり立ち向っていけ。その単純なメッセージがこんなにも熱く胸に迫ってくる。それは、この芝居を演じる子供たちの真剣なまなざしが確かに伝えてくれる。
70年安保なんて知らない世代に革命を語らせようとする総演出の山本篤先生は、その無謀さすら力に変えてしまう。見る前は独りよがりにすらなりかねない暴挙だと思えた。今の高校生に学生運動を語らせるなんてありえない、と思った。なのに彼女らは自分たちの言葉でそれを語ってみせる。ノスタルジーではなく、今に自分たちが、本気で自分たちのための戦いを繰り広げて見せるのだ。
時代設定は1999年。(この時点で、もう充分彼女たちには想像できない過去だろう)ノストラダムスの大予言も過ぎて、2000年問題に揺れていた頃、今よりほんの少し昔。1969年の学生運動で、機動隊に殴られてずっと昏睡状態にあった男が30年の眠りから目覚める。彼が夢見た革命の時代はとうに過ぎ去り、何に対しても無関心で、ただ自分の事だけ考える高校生が過ごす学園に、彼は復学していく。
47歳の男が、30年前の高校生活の続きを送る。時代の落差に戸惑いながらも、彼は自らの正義を貫いていこうとする。高校生が47歳のおやじを演じることに全く違和感がないことに驚く。しかも女子高生がやるのである。最初はさすがに変だろ、と思うが徐々に払拭されていく。それどころか、実に説得力がある。それは、彼女が現役の高校生だからだ。高校生の心を持った男を演じるには高校生が適任なのである。これは見た目の問題ではない。ハートの問題だからだ。山崎という男が30年後の未来で、高校生の心のまま生きていく姿をリアルに表現していく杉浦和世さんが素晴らしい。このリアリティーはオリジナルの山崎役を演じた中村雅俊ではとても表現しきれないのではないか、とすら思わせる。
生々しさが欠落することによって、この芝居の世界が持つ象徴性がより明確なものになる。女子高生たちが、男性も含めて、高校生を演じることの不思議なリアリティーの上に立ってこの芝居は作られていく。金蘭がやる以上それは当たり前のことなのだが、この芝居のポイントである高校生の気持ちをきちんと捉え、そこをベースにして、文化祭を自分たちの手に取り戻すための戦いという、何だか嘘くさいような出来事(今時の高校生は戦はない)に、学生運動の本来の理想を重ねあわすことで、彼らの夢見た革命の脆弱さと純粋さが伝わってくることになった。
これは信じられないような理想や夢を追いかけることについての物語である。もちろんそこにはきれい事だけではなく、とんでもない事実もある。それは1970年以降の歴史を見れば明らかなことだ。革命の理想がどんな風に潰えてしまったのか、それは浅間山荘事件ひとつでも説明できる。だけれども、はたしてそれだけなのか。彼らが最初に抱いていた純心な想いを簡単に否定していいのか。
この芝居が描こうとするのは、そんな「革命の理想と夢を忘れるな」という純粋な想いだ。1999年からたった8年しかたっていない今、もう既にあの頃ですら遠い過去になってしまっている。そんな時代からさらの30年遡って、この芝居は、従順で飼いならされた何も夢を見ないように見える今と言う時代を生きる人々に向けての熱いメッセージだ。
自らの中に眠っている本当の自分を目覚めさせよ。戦うべきものに対して、しっかり立ち向っていけ。その単純なメッセージがこんなにも熱く胸に迫ってくる。それは、この芝居を演じる子供たちの真剣なまなざしが確かに伝えてくれる。