この7月に50分ほどの中編作品として、上演(試演)した作品を、長編作品として、完全版で公開する。突劇金魚1年8カ月振りの本公演である。総力戦だ。AIホールという今までで一番大きな劇場を舞台にして、そこを敢えて最小の狭さで見せる。天井も低く使い、空間は狭く、客席も、諸事情から狭くして、まさに小劇場仕様にする。先週のジャブジャブサーキットも、本来は中劇場規模のホールを、小劇場仕様にして使っていたが、突劇金魚のそれは、また少しアプローチが違う。
まるでお化け屋敷のような空間にする。入口から客席までのアプローチを作る。その迷路のような空間を通って客席に到るというのは、今までもAIホールで何度か見たことがあるけど、入り込んだ客席自体も、更に小さく作られる。AIホールの中にもうひとつの劇場を建て込んだ感じなのだ。客席も、舞台も覆い囲む針金で作られた劇場。まさにこの芝居のために作られた「夏の残骸」劇場だ。
そこで展開するお話は、残酷でおぞましい。DVの話から始まり、カニバリズムまで、女のなかにある狂気をこれでもか、これでもか、と見せる。ここに登場する男たちは、どれだけ暴力を奮おうとも、どれだけ、無関心でいようとも、結局は、ただ女たちに翻弄されるばかりである。強盗は包丁を振り回すが、女は驚きもしない。笑っている。怖くなんかないから。
以前はあんなにおどおどしていたはずの女が、今では、何に対しても動じない。大切な人を失い、狂気に到った、なんていう単純な説明はいらない。これはもともと彼女が秘めていた感情だ。抑えつけてきた本来の自分が噴出しただけで、なんら不思議なことではない。だから、女は怖いのだ。そんなことも知らす女と付き合うべきではない。
ふたりの女は、内側の存在と外側の存在であり、表裏一体の関係にある。それが最後には同じようにこの劇場という女の胎内の部屋に並び、男の死肉を貪る。それを、僕たち観客は安全なはずもない、その胎内で見る。このAIホールに入った時点で、僕たちはもう彼女に食べられていたということに気付く。
サリNGさんは、夏の中編版を作った時点で、この作品自体を作り終えていた。正直言うと、作品自体の完成度は、50分版の方が高い。だが、今回敢えて完璧であるあの作品使い、2倍以上の尺の長編作品として見せたのかは、それも言わずと知れたことだ。あの世界を完全に再現するためである。ドラマとしての完成度ではなく、演劇という世界の完成度にまで高めるためだ。彼女の内宇宙を劇場として、演劇として作り上げるために、この作品はある。これは見る芝居ではなく、体験する芝居だ。
まるでお化け屋敷のような空間にする。入口から客席までのアプローチを作る。その迷路のような空間を通って客席に到るというのは、今までもAIホールで何度か見たことがあるけど、入り込んだ客席自体も、更に小さく作られる。AIホールの中にもうひとつの劇場を建て込んだ感じなのだ。客席も、舞台も覆い囲む針金で作られた劇場。まさにこの芝居のために作られた「夏の残骸」劇場だ。
そこで展開するお話は、残酷でおぞましい。DVの話から始まり、カニバリズムまで、女のなかにある狂気をこれでもか、これでもか、と見せる。ここに登場する男たちは、どれだけ暴力を奮おうとも、どれだけ、無関心でいようとも、結局は、ただ女たちに翻弄されるばかりである。強盗は包丁を振り回すが、女は驚きもしない。笑っている。怖くなんかないから。
以前はあんなにおどおどしていたはずの女が、今では、何に対しても動じない。大切な人を失い、狂気に到った、なんていう単純な説明はいらない。これはもともと彼女が秘めていた感情だ。抑えつけてきた本来の自分が噴出しただけで、なんら不思議なことではない。だから、女は怖いのだ。そんなことも知らす女と付き合うべきではない。
ふたりの女は、内側の存在と外側の存在であり、表裏一体の関係にある。それが最後には同じようにこの劇場という女の胎内の部屋に並び、男の死肉を貪る。それを、僕たち観客は安全なはずもない、その胎内で見る。このAIホールに入った時点で、僕たちはもう彼女に食べられていたということに気付く。
サリNGさんは、夏の中編版を作った時点で、この作品自体を作り終えていた。正直言うと、作品自体の完成度は、50分版の方が高い。だが、今回敢えて完璧であるあの作品使い、2倍以上の尺の長編作品として見せたのかは、それも言わずと知れたことだ。あの世界を完全に再現するためである。ドラマとしての完成度ではなく、演劇という世界の完成度にまで高めるためだ。彼女の内宇宙を劇場として、演劇として作り上げるために、この作品はある。これは見る芝居ではなく、体験する芝居だ。