李相日監督が『怒り』から5年振りで放つ大作映画だ。渾身の力作である。2時間30分。あまりにヘビーで見終えたときはクタクタだ。だけど、孤独な2人の魂の旅に寄り添い、一時の平安にたどりつくラストは心地よい。世界中から見放されてもいい。たったひとり、自分のことをちゃんとわかってくれる人と一緒に居られるのなら。だが、彼らがようやく安住の地にたどりつくこのラストシーンは寂しい。このラストを単純にハッピーエンドと受け止めきれないのが歯痒い。
最初からそうだったのだ。孤独な魂同士が寄り添い一時の平安を過ごす。でも、世の中はそれを許さない。他人のことなのに容赦なく干渉してくる。面白おかしく記事にして、正義の旗のもと、糾弾する。10歳の少女が変態男に拉致された、ということになる。格好のマスコミの餌食だ。あれから15年。ふたりが再会する。
原作を読んだ時も衝撃的だったが、映画はその比ではない。あまりに生々しく、口を閉ざすふたりの想いは、観客である僕たちの胸にさえ届かない。文(松坂桃李)は、もしかしたらやはり変態なのか、と疑う。終盤8歳の少女を預かり、過ごす時間を見ていて、こいつはもしかしたら、ただの少女愛好者なのか、と一瞬思う。更紗(広瀬すず)も、おかしいのではないか、と思う。彼の隣の部屋に住み、彼を疑うこともなく、少女を預ける。この少女を巡るやりとりが映画のラスト直前に描かれる。実にスリリングだ。そして、そんな疑いを抱かせることで観客である僕たちが試されることになる。
ふつうの映画なら周りが理解できないだけで、観客は主人公に想いに寄り添える。だが、この映画は僕たち観客すら拒絶する。ふたりは、それぞれ心を閉ざしたまま、貝のように。最後に、更紗に明かされる文の衝撃の真実。それを彼女だけは受け止める。人と人は体でつながるわけではない。では、心でつながるとでもいうのか。そんなのは幻想でしかない。ふたりが出会ったとき、そこには理由はない。でも、彼は彼女を包み込んだ。だから彼女は心を開けた。母親から見放された幼い少年だった文。両親を失い孤児になった更紗。ほんとうなら守られている時間を失い、地獄のような境遇に落とし込まれ、居場所を失くす。公園でずっと本(『赤毛のアン』だ)を読んでいた少女、更紗。雨が降ってくるけど彼女は動かない。そんな彼女を見守っていた青年、文は傘を差しだす。そこからすべてが始まる。
横浜流星演じる更紗の恋人と多部未華子演じる文の恋人を配して、彼らのふたりへの想いが観客である僕たちの想いとそれほど遠くないという事実を提示する。その事実には震撼させられる。衝撃を受けることになる。観客である僕たちの優位性なんかこの映画にはない。あるのは文と更紗というふたりの絶対的な孤独だけで、そこに共感やら感情移入やらは必要ないし、不可能だ。だから、見ていて恐ろしいし、つらい。李相日は安易な解決なんか用意しない。容赦ない。だから、ラストの平安だって、一瞬のことでしかないとわかる。安心なんかどこにもない。