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映画・演劇のレビュー

『春原さんのうた』

2022-01-31 12:07:22 | 映画

東直子の第1歌集「春原さんのリコーダー」の表題歌「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」を基にした映画であるらしい。短歌の映画化なんて初めてではないか。たった31音を2時間の映画にしてしまうだなんて、あり得ない挑戦だ。杉田協士監督はその前作でも短歌を題材にしたらしい。僕は東直子の寡黙な小説が大好きで彼女な作品が映画化されるというそれだけの理由でこの映画を見ることにしたのだけど、思いもしない映画との出会いに興奮した。

こんな映画を見たことがない。2時間の至福。でも、これでいいのか、という驚きもある。だって何が描かれてあるのだか、まるでわからないのである。主人公の女性が引っ越してくるところから始まり、新生活を送る姿が淡々としたタッチで描かれていくのだが、これってあまりに淡々としすぎではないか、と淡々大好きの僕ですら心配する。説明は一切ないスケッチ。しかも、大事なことは何一つ言葉にしない。どうでもいいようなことしか、しゃべらないし、基本しゃべらないで話は進む。手洗い、消毒、マスク。それが映画の中でこんなにも丁寧に描かれるのも初めてではないか。同じようにコロナ禍を描く昨年公開された石井裕也監督の『茜色に焼かれる』でも、ここまでマスクをしていない。この映画は別にコロナ禍がテーマではないにも、かかわらず、この状態である。2020年の夏から秋にかけてが舞台になるから、たまたまこういうことになっただけ、というくらいのスタンスだ。家に帰ると(やってくると)手洗いをして、マスクを着用したまま、会話をする、食べるときには外すけど、またちゃんとつける。そんな映画やドラマは見たことがない。

いや、大事なのはそんなことではない。彼女の抱える痛みと映画は真正面から向き合わない。誰も、そのことには触れない。避けているわけではない。今ここで言うことではないからだ。でも、自然と涙を流すシーンが多々ある。流れる涙を止めることはできないからだ。周りのみんなに支えられて少しずつ、彼女は明るくなっていく。何がどうしたから、というわけではない。時間が少しずつ彼女のさみしくて苦しい心を溶かしていく。気を遣う友人たちや親戚の来訪。頻繁にいろんな人たちが新しく引っ越してきた部屋を訪れてくる。ここは風が通り夏でも涼しい。玄関を開けっぱなしにすると、風が裏へと通り抜けていく。

喫茶店でアルバイトしている。お客さんとのやり取り、平凡な毎日の繰り返し。それが彼女を癒していく。ずっと彼女を見ていたい、と思う。自分も一緒に彼女を見守っていたいと思う。それは彼女に恋した、というのとは違う。いや、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。なんだか少し恥ずかしい。

 


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