この小説を読んでいた3日間はとても幸せだった。何も考えずただこの主人公に寄り添うだけでよかった。世界と隔絶し、自分の世界の中で閉じこもり、たったひとりで淋しく過ごす。もちろん現実はそうではない。毎日たくさんの人と接して、いろんなことをしている。それが仕事だ。だが、電車の中で本を読んでいる時間だけは、そうじゃない。たくさんの人が周囲にいても、まるで目には入らないし、いつも以上に読書に集中いている。
本の校閲の仕事をしている彼女は職場でも浮いている。周囲とうまく交われあない。1人で黙々と仕事をこなす。やがて、職場を辞めて、フリーで、校閲の仕事をすることになる。30代の後半になるが、結婚もしていないし、恋人も家族もいない。友だちもいない。世界から隔絶している。ただ、家から出ずに、ただ、ひとり黙々と原稿に目を通す。やっていることは会社にいた頃と同じで、誰とも関わらなくてもいいから、煩わしい人間関係に囚われることがないから楽だ。そんな彼女の日々を追いかけているだけの小説なのだが、淋しいとか、そういう感情が描かれるのではなく、心静かに過ごす時間の豊かさが心に沁みて来る。そんな生き方があってもいいではないか、と思う。彼女に寄り添い、淡々と日々を生きる。
カルチャーセンターで偶然出会った三束さんという50代後半、初老の高校で物理を教えているらしい先生と知り合う。2人で喫茶店でただ話をするだけの時間が彼女にはうれしい。恋ではない。父親と娘くらいの年齢差がある。ただ安心できる。光の話をする。お互いのことをしゃべるのではない。毎週同じ時間同じ場所。それをデートだと、言うのならば、そう呼んでもいい。2人はそれ以上、何も求めない。ただ、それだけのことを繰り返す。彼女は彼のことを、かけがえのない存在だと思う。でも、これだけで充分なのだ。ただ、これだけで幸せだと思う。多くを望まない。傷つきたくないからだと、簡単に答えを出すのは憚られる。
たとえ彼がどんなにかけがえのない存在であろうとも、人と深く関わり合うことを望まない。心の中で思うだけでいい。近ずくことが怖いのかもしれない。それは拒絶され、またひとりになることを恐れるからかもしれない。ずっとひとりだったし、これからもそうだ。1人で、生きて、1人で死ぬ。三束さんの嘘は彼女を傷つけたりはしない。だが、彼は自分で傷つき去っていく。教師ではなかったこと、たぶんひとりではなかったこと。そんなこと、本当はどうでもいいことなのだ。ただ、彼女は目の前の彼の優しさに触れ、心癒され、生きていく希望をもらった。それだけで十分幸せだった。
やがて心は壊れていく。好き、という想いを認めると、心に境が出来てしまう。人と関わることに積極的になるなんて、できない。心身のバランスを崩す。ひとりで完結していたから、生きられた。だから、平穏に日々をやりすごすことが出来ていたのだ。何かを望んではならない。期待してはならない。ただ、何もなく、与えられた仕事をこなし、生きていくだけ。何も考えず、そこにいる。そんな淋しい人生でいいのか、と他人は言うかもしれない。だが、彼女はそうしてなんとかバランスを保ってきた。それが生きるすべだった。
三束さんが、すき。彼のことを何も知らないのに。いや、そうじゃない。彼のすべてを知っている。彼女の孤独とシンクロして、ただ、そこに寄り添ってくれる。それだけで、すべてだ、と思う。それ以上何を望むのか。付き合って、恋愛して、結婚して、ともに生活する。支え合って人生を過ごす。ふつうに誰もがしていること。だが、それが何になるのだろうか。他人の生き方を否定する気はない。だから、自分の生き方にも干渉しないで欲しい、と思う。
誰だって、結局はひとりだ。ひとりで、生き、ひとりで、死ぬ。誰かがいる、と思うことは、一時の幻想にすぎない。でも、ひとは弱いからそんな幻想にすがる。愛という名のもとに、幻を信じる。悪いことではない。ひとはひとりでは生きられない、というのも、事実だ。だからこそ、彼女の生き方に憧れる。これは小説だ。現実ではない。小説のなかで、僕たちは孤独の夢をみる。
本の校閲の仕事をしている彼女は職場でも浮いている。周囲とうまく交われあない。1人で黙々と仕事をこなす。やがて、職場を辞めて、フリーで、校閲の仕事をすることになる。30代の後半になるが、結婚もしていないし、恋人も家族もいない。友だちもいない。世界から隔絶している。ただ、家から出ずに、ただ、ひとり黙々と原稿に目を通す。やっていることは会社にいた頃と同じで、誰とも関わらなくてもいいから、煩わしい人間関係に囚われることがないから楽だ。そんな彼女の日々を追いかけているだけの小説なのだが、淋しいとか、そういう感情が描かれるのではなく、心静かに過ごす時間の豊かさが心に沁みて来る。そんな生き方があってもいいではないか、と思う。彼女に寄り添い、淡々と日々を生きる。
カルチャーセンターで偶然出会った三束さんという50代後半、初老の高校で物理を教えているらしい先生と知り合う。2人で喫茶店でただ話をするだけの時間が彼女にはうれしい。恋ではない。父親と娘くらいの年齢差がある。ただ安心できる。光の話をする。お互いのことをしゃべるのではない。毎週同じ時間同じ場所。それをデートだと、言うのならば、そう呼んでもいい。2人はそれ以上、何も求めない。ただ、それだけのことを繰り返す。彼女は彼のことを、かけがえのない存在だと思う。でも、これだけで充分なのだ。ただ、これだけで幸せだと思う。多くを望まない。傷つきたくないからだと、簡単に答えを出すのは憚られる。
たとえ彼がどんなにかけがえのない存在であろうとも、人と深く関わり合うことを望まない。心の中で思うだけでいい。近ずくことが怖いのかもしれない。それは拒絶され、またひとりになることを恐れるからかもしれない。ずっとひとりだったし、これからもそうだ。1人で、生きて、1人で死ぬ。三束さんの嘘は彼女を傷つけたりはしない。だが、彼は自分で傷つき去っていく。教師ではなかったこと、たぶんひとりではなかったこと。そんなこと、本当はどうでもいいことなのだ。ただ、彼女は目の前の彼の優しさに触れ、心癒され、生きていく希望をもらった。それだけで十分幸せだった。
やがて心は壊れていく。好き、という想いを認めると、心に境が出来てしまう。人と関わることに積極的になるなんて、できない。心身のバランスを崩す。ひとりで完結していたから、生きられた。だから、平穏に日々をやりすごすことが出来ていたのだ。何かを望んではならない。期待してはならない。ただ、何もなく、与えられた仕事をこなし、生きていくだけ。何も考えず、そこにいる。そんな淋しい人生でいいのか、と他人は言うかもしれない。だが、彼女はそうしてなんとかバランスを保ってきた。それが生きるすべだった。
三束さんが、すき。彼のことを何も知らないのに。いや、そうじゃない。彼のすべてを知っている。彼女の孤独とシンクロして、ただ、そこに寄り添ってくれる。それだけで、すべてだ、と思う。それ以上何を望むのか。付き合って、恋愛して、結婚して、ともに生活する。支え合って人生を過ごす。ふつうに誰もがしていること。だが、それが何になるのだろうか。他人の生き方を否定する気はない。だから、自分の生き方にも干渉しないで欲しい、と思う。
誰だって、結局はひとりだ。ひとりで、生き、ひとりで、死ぬ。誰かがいる、と思うことは、一時の幻想にすぎない。でも、ひとは弱いからそんな幻想にすがる。愛という名のもとに、幻を信じる。悪いことではない。ひとはひとりでは生きられない、というのも、事実だ。だからこそ、彼女の生き方に憧れる。これは小説だ。現実ではない。小説のなかで、僕たちは孤独の夢をみる。