これもまた新人監督のデビュー作品だ。『サバカン』とは違いこちらは実にシビアな内容。でも、同じように自分たちが抱える問題と正面から向き合い妥協はない。自分のスタイルをしっかり持ち、自信をもって自らが取り上げた(選んだ)題材と向き合う姿勢が素晴らしい。過剰な思い入れはあえてせず、きちんと距離を保ちながら冷静にこの少年現実と対峙する。
彼が逃げるのではなく、自分の意志で施設を抜け出し、母親の元へと旅立つ。5歳のころ、この児童養護施設に預けられた。母親の必ず迎えに来るからと言ったことばを信じて今日まで生きてきた。中学生になったら迎えに来るという約束は守られない。だから、自分から母のもとへと行くことにした。川崎から千葉まで。これは彼の冒険の物語だ。だけど、『サバカン』のような甘いお話ではない。必死の覚悟を秘めてたったひとりで向かう。だが、そこには自分のことで精いっぱいで彼のことを慮ることなんかできない弱い女しかいない。彼を抱きしめて、涙を浮かべるやさしい母親は同居する男の顔色を窺い、息子のことを「この子は親戚の子で、少しの間預かることにしたの」なんていういう。そんな嘘を平気でつく女なのだ。もちろん、少年は傷つく。だけど、母親はそのことに気が付かないし、男に対して隠すことだけに必死だ。居場所なんかない。施設と連絡を取り迎えに来てもらう。彼が、ではなくもちろん母親が、だ。
映画はこの後、居場所をなくし、帰るところも失った彼が、海辺のトラックで生活する浮浪者(オダギリジョー)のもとに身を寄せることになる。ここからお話は本題に入る。母親に捨てられたふたりの男たちの日々が描かれていく。おっさんと中坊。おっさんは名古屋で起きた震災で被災した母親を探しに行くため旅をしていたが、ここで車が故障したので、仕方なく暮らしている。でも、ここに留まりもう1年になる。母親に会いに行くため、と言いつつも実は会うのが怖いのだ。彼の母親は認知症で、施設に入っている。でも、震災でどうなったのかはわからない。もう死んでいるかもしれない。少年はおっさんと生活をしながら、まるでほんとの居場所を見つけたような幸福を感じる。初めて自分の家を見つけたのだ。おっさんが父親のように思える。彼には父親はいない。おっさんから「息子です」とかいうふうに人に紹介されるのがうれしい。でも、映画の中では、彼はそんなこと一切表情に出さない。無表情のままだ。
彼はそれだけではなく、すべての自分の気持ちを表に出すことはない。周囲を拒否しているのでもない。甘えることができない。そんなふうに育ってきた。人を信じられない。心は開かない。でも、おっさんはそんな彼をそのまま受け入れる。おっさんを慕ってやってくる女子高生もそうだ。少年は彼女に憧れる。好きだという気持ちを表には出さないけど。そんな彼がもどかしい。3人はこの海辺で焚火をしたりして、語り合う。少年はほとんどしゃべらないけど。他の二人もあまりしゃべらない。でも、3人は心を寄せ合う。
衝撃のラストまで、穏やかな時間が描かれる。やがて、しかも近い将来、こんな時間が終わるのはわかっている。だけど、今が、今日1日が、こんなふうに過ごせたならいい。明日も、そうであればいい。そんな感じか。刑事から「おまえが火をつけたのだろ!」と言われたとき、「ぜんぶ、ボクのせい」と答える。すべてを引き受けるのではない。この世界がこんなにも残酷なのは、誰かのせいではない。でも、彼のせいであるはずもない。だが、彼はこの世界を拒絶するのではなく、受け入れる。心を閉ざすのだ。まるで世界をシャットダウンしたようなあのラストシーンが悲しい。
映画は詰めが甘く、つっ込みどころは満載なのだが、それでもこの映画が信じられるのは、少年が何も言わないからだ。ただ何も言わず耐えているのではなく、世界を見つめている。そこには「こんな世界でいきているのだ」という断念がある。唐突なラストの声は受け入れがたい。彼自身がたぶんなんでそんなふうに言ったのかもわかってはいないのだろう。でも、あの放火犯への恨みや、それによっておっさんを死なせたことすら、自分で抱え込もうとすることで、彼は世界の終わりを思う。もちろん、この映画が終わった後も彼の生きる世界は終わらないのに。