原作を読んだ時には、これはなんだかあざといな、としか思わなかった。決して悪いとは思わないけど、底が浅いし、わざとらしい。映画プロデューサーである川村元気の書いた小説だから、どうしてもマーケットリサーチがなされた(ような)作品になるのだろうか。
小説というものはもっと個人的なもので、「いびつ」なもの、と思う。
だが、これを映画化することで、しかも作家性を重視した作り方をしたなら、もしかしたらバランスのいい作品になるのかも、なんて思う。予告編がとても雰囲気があってよく、キャスティングも理想的。佐藤健と宮崎あおいが主演。原田美枝子と奥田瑛二が主人公である佐藤の両親を演じ、濱田岳が親友としてサポート。たぶん最高のキャスティングが実現した。だから、もしかしたら、これは大丈夫かも、と思った。脚本、岡田恵和、監督は永井聡というのも悪くはない。
とても静かな映画だった。自分が死ぬということを受け止める。病院でいきなり「おまえは不治の病だ」と宣告される主人公。そんな、バカな、と信じられない。当り前のことだろう。だがそれが事実だ。どれほど理不尽でも受け入れるしかない。突然のことだけど、まぁ、人生なんて、そんなものだ。(たぶん)
だから彼は、泣く。でも、暴れない。暴れてもこの現実は避けられないし。
そんな彼のもとになんと悪魔がやってきて(佐藤が二役で演じる)、この世界からものをひとつ消していくことで、あなたは一日生き延びることが出来る、という。そんなバカな。でも、それも事実。
最初は携帯電話。翌日は時計、そして、3日目、映画。大切なものを失うことの痛みを実感することで、彼はもうそういうことはいい、と思う。4日目、世界から猫がなくなるくらいなら、自分が消えたほうがよい、と思う。自分のためだけに、世界から大切なものを失くすだなんて、忍びない。
なんだか、切ないけど、彼は自分が何かを棄てることで、この世の中はどうなっているのか、ということを知る。だから、もう何かを失くさない。自分なんていなくても、世界は変わらない。でも、誰かが、あるいは何かが失われることで、世の中はとても寂しくなる。それが何であろうとも、である。今度は自分を失くそう、と思う。猫だから、というわけではない。先の3つを失くしたとき、その痛みでわかったのだ。次は僕でいい、と。もちろん彼が死んだなら、家族が悲しむ。別れた彼女も悲しむ。わかっている。
死んだ母親の最期を看取った時に感じたあの傷みを思いだす。同じことだ。僕なんかがいなくなってもなにも変わらない、はずもない。父はひとりぼっちになる。頑固な時計職人で、母が死んだときにも、病室ではなく、店で時計を修理していた。恋人と旅をしたとき、好きだった映画『ブエノスアイレス』の舞台を訪ねた。彼らは、そこで出会ったバックパッカーの男と仲良くなる。別れの時、手を振って別れた直後、ふたりの目の前でその男が車に轢かれて死ぬ。
回想が幾度となく、挟まれていく。死ぬ直前の走馬灯のように。時制が行き来する。だが、全体のトーンは変わらない。ずっと同じように、静かなままだ。これは103分の短い映画だ。
大好きだった猫のエピソードがちゃんと、全体の核として描かれる。幼い日のキャベツの話と、今も彼のもとにいるレタスの話。そんな2匹の猫を巡る優しいエピソード。それも全体の中に埋もれる。彼らのことがあったから、猫が消えることを認めなかったわけではない。あのとき、彼はわかったのだ。それがどんなものでも、無くなるべきではない。大切なものを喪失する意味を知る。これはそんな映画だ。