先日始めて読んだ児童文学のベテラン作家である(らしい)高楼方子の『黄色い夏の日』があまりに素晴らしかったので、彼女の本をもう少し読んでみようと図書館の児童書の棚に向かったらあまりにたくさんの本が並んでいて驚いた、という話は前回に書いた。そこでまず絵本の『わたし、パリにいったの』を手にした。幼い姉妹のお話だ。姉が妹が生まれる前に両親とパリに行ったときの写真をふたりで見る。それだけの話だ。妹はアルバムを見ながら、その時のできごとをまるで見てきたかのように話すのは、もう何度となくこのアルバムを手にして姉や両親からいろんな話を聞かされてきたからだけど、本人は自分の体験したことのように話す。だって彼女もその旅行に行っているからだ。まだ、そのときはお母さんのおなかの中にいたんだけれど。 なんて優しいお話だろうかと思った。このささやかで小さなお話は「お話」というものの可能性を感じさせる。
さて、本題に入ろう。彼女の唯一の大人向けの小説だという『ゆゆのつづき』である。これもまた夏の日の物語だ。そして11歳の少女のお話である。驚くべき作品だった。
これはまず11歳の少女の頃の夏休みのお話なのだ。今、大人になり、翻訳の仕事をしている57歳の女性が11歳の夏の日を思い出すというスタイルで、これってお話としてはよくある児童文学ではないか、と思い読み始めた。前半(Ⅰ部)の「ゆゆ・あの夏の日」を読み終えたとき、これなら児童文学として分類されてもおかしくないな、と思った。もちろん驚いたのはそこではない。思い起こす11歳の(小学5年生だった)夏休み。その最初の1日の冒険。それが特別なことは何もない、ということに驚いたのだ。記憶のかたすみからよみがえる1日である。それを小説にしたのだから、この日が特別なドラマになるというのが普通ではないか。ふつうならそうなる。なのに、この小説のその日には、いろんなことが確かにあったけど、でも、特別小説として描くほどのできごとはないのだ。こんな小説は初めて読んだ。
後半(Ⅱ部)の「由々・この夏の日々」は現在のゆゆ(由々)の時間が描かれる。あの夏の1日を思い出した後の時間だ。ここに至って確かにこれは児童文学という分類には収まらないな、とは思う。だけど、僕にとっては、児童文学だとか大人の小説とかいう分け方はどうでもいい話だ。要はそれが文学作品として面白いかどうか、それだけ。なんでもないはずのあの夏の1日が起点となり、今に彼女を動かしていく。残念だが、本題でもあるこの後半のお話は少しお話がうまく作られすぎているよな気がして前半のような驚きはなかった。しかも、ラストは11歳のあの日は忘れられないものだった、ということを意味つけるための辻褄合わせのような展開である。タツヒコさんとよく似た龍彦との淡い恋心のお話も残念だが、少し作り物めく。整合性にこだわりすぎて反対に全体のバランスを崩している。お話はもっとさりげなくていい。