天才ジャン=ピエール・ジュネ監督が、またまたやってくれた。僕は大ヒットした『アメリ』よりもこの映画の方が好き。彼のフィルモグラフィティの中ではこの2作品はよく似た傾向の作品であろうが、「かわいい」のアメリよりも、「家族愛」のこちらの方がより、彼らしい。普遍的なお話の中で、自分の個性をどこまで発揮するか。それがこの2作品の特徴だ。それは商業主義への迎合ではない。もし、それなら、彼は今頃ハリウッドで成功したはずだ。そんなことには興味ない。
『デリカテッセン』で出会ってから欠かさず彼の映画は見ているし、評判の悪かった『エイリアン4』も大好きだ。あの映画でも、彼のキッチュな世界は健在だったし、ハリウッド映画に挑戦して、苦戦しながら(映画自体とではなくプロデューサーとの確執だろう)それでも自分の映画を守り抜いたと思う。今回、再びアメリカに挑戦したのだが、完全にフランス映画として製作されたようだ。そういうところも好き。
家族から理解されないことへの不安。自分の才能を過信するのではなく、ただ、自分らしくあろうとしただけ。周囲の無理解に傷ついているはずなのに、そんなことおくびにも出さず、自分の道を行く。でも、本当はとても傷ついている。弟の事故死も、自分のせいだと思っている。自分なんかいなくてもいい、と思う。でも、本当はさびしい。両親の愛や、姉の愛を受け止めたい。もっとちゃんと、愛して欲しい。
『天才』ということを前面に出した宣伝や日本語タイトルには違和感がある。観る前からそうだったが、映画を見て改めて感じた。たまたま彼が天才だっただけで、彼はただの10歳の少年なのだ。そのことを、映画は、さりげなく、でも、とても大切にしている。だから、まるで、天才少年の物語のように思わせるのは違う。
アメリが普通の女の子であったのと同じように、スピヴェットも普通の男の子だ。だが、ある日、彼のもとにスミソニアン博物館から、彼の画期的な発明がベアード賞を受賞したという知らせが入る。授賞式に出て欲しいと言われるが、最初は断る。学校があるから、と。だいたい、博物館側は10歳の少年が発明したとは思いもしない。だから、父親の発明だと思っていたのだ。でも、彼は行く。このスミソニアン学術協会から呼ばれたことを受けとめて、モンタナから大陸を横断してワシントンまで、一人旅を敢行する決意をする。実は、これは家出でもあるのだ。
この映画は、彼のこの大冒険を描く壮大なスケールのロードムービーなのだ。圧倒的な自然の中、ホーボーのようにして颯爽と貨物列車に乗り込み(もちろん、無賃乗車して、)ワシントンDCを目指す。大都市シカゴで、列車を降り、そこからはヒッチハイクだ。そんな彼の旅を軽快に見せる、のではない。
だいたいその行為は簡単なものではない。あり得ないことなのだ。でも、乗り切る。それを悲壮な覚悟と、切ない描写で見せていく。リアルとまではいかないけど、10歳の少年が、たったひとりで旅する気分を見事に表現した。この映画が素晴らしいのはそこだ。そんな中でも白眉は夜中に停車した列車から出て、ホットドックを買いに行くエピソードだ。
もちろん、旅に至るまでの描写が素晴らしいから、この旅の様々なエピソードが生える。モンタナの大自然の中で暮らす彼の孤独。この美しい風景の中で、彼が抱えるものが浮き彫りにされる。この部分があるから、その後の大陸横断の旅が意味を持つのだ。
さらには、天才少年としてマスコミに取り上げられ、もみくちゃにされた後、彼を取り戻すためにやってきた両親と、家族のもとに戻るという結末が生きる。これはすごいことを成し遂げた少年を描くのではない。(もちろん、その「すごいこと」というのが大陸横断単独行の方だ、というのなら、納得するけど)
とんでもない話なのだが、そこにあるのは、実にささやかなことだ。でも、10歳の子供が本気で大人たちに混じり、自分の意見を述べる。それが可能だったのは彼が「天才」だからではなく、彼が立派な人間だったからだ。そのことが胸に沁みる。