夜の道頓堀川の川面を見つめながら、遠く離れた場所で今も生きている父親の幻影を見る。沖縄の島で、自分の知らない女性と暮らし、会ったこともない弟と3人で生きているはずの男。
今ここにいる自分がいつのまにか、父の居る島にいて、そこで血のつながりのない女や、血のつながりのある弟を見る。こことそこがひとつにつながっていく。すべては幻でしかない。だが、彼にとってはすべてが現実だ。
父親の声を聞くこと。その瞬間へと、すべてのドラマが収斂されていく。「としひろ」というその一言。たったひとこと。父は自分の名を呼ぶ。
90分程のとても短い芝居だ。駆け出しの作家(紀伊川淳)が、幼い頃出奔した父親の幻を追い続ける。それはきっと一瞬の物語だ。時間は錯綜するが、その絡まった糸をほぐしていく必要はない。そのまま僕たちはこの幻想的な物語を見続けていくだけでいい。
作、演出の深津篤史さんの自伝的な作品である。祖母が亡くなったこと。その100日法要。ずっと連絡を取らなかった父と電話で話したこと。こういった一連のエピソードはほぼ現実に起こったことを下敷きにしているらしい。今回はいつものような観念的な芝居ではない。とても素直だ。
道頓堀のネオンの中をフラフラと歩く。2匹の犬がじゃれる。場末のバーで飲む。警備員に声をかけられる。スカジャンの男と話し込む。ラストでは朝の町を恋人と2人手を繋いで歩く。こんなにも素直な桃園会の芝居を見たのは初めてではないか。
時空間はあちこちに動いていくが決して複雑な芝居ではない。もしかしたらいつも以上に分かりやすい芝居ではないか。
たった1年で廃墟と化した沖縄海洋博の跡地を訪れたというエピソードがなんだか切ない。なにげないこの話がこの芝居全体を象徴する。儚い時間の中で人が生きていることの意味がさりげないエピソードの連鎖の中で描かれる。とてもストレートで屈託がない作品に仕上がっているのが、なんだかうれしい。ストーリーは、決して解りやすいわけでもないが、心情的にとても解りやすいというのが、今回の作品の魅力であろう。アマノテンガイ演じる父親がそっけなく軽いのがいい。
今ここにいる自分がいつのまにか、父の居る島にいて、そこで血のつながりのない女や、血のつながりのある弟を見る。こことそこがひとつにつながっていく。すべては幻でしかない。だが、彼にとってはすべてが現実だ。
父親の声を聞くこと。その瞬間へと、すべてのドラマが収斂されていく。「としひろ」というその一言。たったひとこと。父は自分の名を呼ぶ。
90分程のとても短い芝居だ。駆け出しの作家(紀伊川淳)が、幼い頃出奔した父親の幻を追い続ける。それはきっと一瞬の物語だ。時間は錯綜するが、その絡まった糸をほぐしていく必要はない。そのまま僕たちはこの幻想的な物語を見続けていくだけでいい。
作、演出の深津篤史さんの自伝的な作品である。祖母が亡くなったこと。その100日法要。ずっと連絡を取らなかった父と電話で話したこと。こういった一連のエピソードはほぼ現実に起こったことを下敷きにしているらしい。今回はいつものような観念的な芝居ではない。とても素直だ。
道頓堀のネオンの中をフラフラと歩く。2匹の犬がじゃれる。場末のバーで飲む。警備員に声をかけられる。スカジャンの男と話し込む。ラストでは朝の町を恋人と2人手を繋いで歩く。こんなにも素直な桃園会の芝居を見たのは初めてではないか。
時空間はあちこちに動いていくが決して複雑な芝居ではない。もしかしたらいつも以上に分かりやすい芝居ではないか。
たった1年で廃墟と化した沖縄海洋博の跡地を訪れたというエピソードがなんだか切ない。なにげないこの話がこの芝居全体を象徴する。儚い時間の中で人が生きていることの意味がさりげないエピソードの連鎖の中で描かれる。とてもストレートで屈託がない作品に仕上がっているのが、なんだかうれしい。ストーリーは、決して解りやすいわけでもないが、心情的にとても解りやすいというのが、今回の作品の魅力であろう。アマノテンガイ演じる父親がそっけなく軽いのがいい。