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映画・演劇のレビュー

きづがわ『追憶のアリラン』

2016-06-26 09:04:37 | 演劇

いつも渾身の力作を作るきづがわの新作は日本統治下の朝鮮を舞台にした平壌府の地方法院検事局。昭和16年。そこに赴任した主人公のドラマ。敗戦までに日々、その後人民裁判にかけられ、裁かれることになる。彼らは無事、日本に帰れるのか。部下である朝鮮人事務官に依頼した妻子に行方。朝鮮戦争により分断される懐かしいかの地を思う。現在(昭和28年)から始まるドラマは単純な改装ではなく、過去、未来が交錯して織りなすドラマだ。それを演出の林田時夫さんは丁寧に見せすぎる。

 

今回の作品の描くべきことは悲惨な歴史の証言ではない。事実の確認でもない。日本統治下から分断されるまでの怒濤の日々をひとりの日本人の視点から描くのではなく、彼の部下であった若い朝鮮人エリート事務官の目から描くのだ。彼のリベラルな目線がこの芝居を貫く。日本人の中で働き、信頼できる日本人の立場も、支配された朝鮮人の立場もわかる。祖国とか民族とかではなく、ひとりの人間として何が出来るのか、何を為すべきなのか、彼の選択を通して、人が為すべきことを、為さねばならないことを、冷静に見極める。この芝居は彼のクールな視線を描くことで、虐げられた民族の悲哀ではなく、再生への道標でもなく、世界の在り方すら射程に入れたドラマとして、立ち上がることとなる。

 

いろんな可能性を秘めた作品だった、と思う。だが、あまりに生真面目に作りすぎたため、わかりやすい歴史の証言に終わってしまったのだ。なんとも残念な話だ。舞台下手に出てくる字幕が描かれる時間や状況を丁寧にわかりやすく説明するのだが、そうすることで、お話が整理され、奥行きを失う。

 

この芝居は混沌を描く作品のはずなのだ。新任検事が、ここにやってきて、戦争のさなかの平壌で、正義を貫くが憲兵の横暴に合い、罪もない朝鮮人たちを死なせ、自責の念に駆られる。だが、そんな彼を冷静に見ていた朝鮮人青年(先にも書いたが彼が主人公だ)に助けられる。これはただの美談ではない。民族を超えた友情物語でもない。時代の中で真実を見極める目を持つことの意味を問う、そんな作品だと思う。若い作家である古川健(劇団チョコレートケーキ)は、きっととそこに自分の視点を定めたはずだ。だが、林田さんはどうしても日本人である検事の立場からすべてを描こうとしてしまった。それが作品全体をわかりやすいけど、ありきたりなものにした。ほんの少しの匙加減で微妙な作品はバランスを崩す。難しいものだ。

 


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