確かに凄い映画だ、と言える。しかし、ここでも中途半端なイメージしか残さない。何かが足りない、と思うのは僕ひとりか? このバフマン・ゴバディの新作を見て、こんな不満を抱くことになろうとは思いもしなかった。それはこの後見た『野火』にもつながる。いずれも渾身の力作であることは疑いようもない。しかも、彼ら才能ある監督が、命を削って作った魂の一作だ。なのに、それらが僕の心には届かない。もうそれって、僕の罪ではないか、とへこむほどだ。だが、敢えて自分のせいにはせずに、作品のせいにしよう。それは感性の鈍い自己へのベンゴではない。素直な感想だと受け止めて欲しい。何が足りないのか、よくわからない。
現実か、妄想か、定かではない、というパターンを受け入れるためには、映画自体がかなりの力を持たないことには意味をなさない。ただの逃げにしか見えなくなるからだ。テオ・アンゲロプロスの映画や、デビット・リンチの作品を見たときには、そんなことで悩まない。なのに、先日の押井守から始まる映画群すべてに対して僕は納得しない。これはちょっと異常だ。
30年間無実の罪で幽閉されてきた詩人が釈放される。生き別れになった妻を捜す。妻は生きている。しかし、彼は彼女の前に姿を現わせない。30年の空白を埋める自信がない。しかも、彼は死んだと知らされて生きてきた彼女の前におめおめと姿を現せられない。だから、静かに見守るしかないのだ。彼女に勘付かれないように息を潜めて、見守る。同じ町に居ながら、逃げるようにして、暮らす。
イラン、イスラム戦争を背景にして、実在したクルド系イラン人である詩人の実体験を、監督である自分の亡命もトレースして描く。切実で切ない映像詩。ドラマよりもシーンシーンの強度を前面に押し出し、まるで優れた絵画作品を見ているような感動がある。だが、それが映画を映画としての感動から遠ざける。踏み出せないのだ。眺めるばかりでもどかしい。彼の心情がドラマとして胸に届かない。