なんと石井岳龍監督の新作は文芸映画。室生犀星原作で、自身をモデルにした老作家と、金魚の恋の物語という荒唐無稽さ。こんなファンタジーを映画にして、何が何だか、である。誇り高い「文芸もの」なんていうものに興味なんかないわい、という姿勢で映画作りしてきた彼が何をとち狂ったか。不思議なもの見たさで、劇場に行く。
なんだぁ、この軽やかさは。買ってきた金魚(二階堂ふみ)が人間の姿になって、老作家(大杉漣)にまとわりつく。老人と小悪魔という設定は谷崎の『痴人の愛』を彷彿させる。若くて可愛い女に翻弄される老いて無残な作家、という図式からも果てしなく遠い。
昭和レトロを満喫できる「おしゃれな映画」という作り方も出来た。だが、この映画はそういう枠組みからも遠く離れたところにある。名前を変えてから石井監督はそれまでのブランクを払拭するようにコンスタントに映画作りをしている。毎年のように新作が作られ、それが様々なジャンルに及ぶ。ロックンロールのアクション映画という従来の定番からこんなにも自由になった。小規模の作品ばかりだが、それでも、予算に縛られることなく、自由で大胆な映画をのびのび作る。そんな延長線上に今回の作品もある。ルックスと内容がかけ離れているわけではないのに、とても大胆で意外性のあるしかも、ちゃんと文芸作品としての風格もある。(まぁ、彼の中ではそんなことに何の興味もなかろうが)
ありのままを見つめる。そこになんら批評のようなものは関与しない。自由奔放に見える金魚だって、実はいろんなものに縛られている。猫に尾っぽを噛まれたり、先生がほかの女のところに行くと、嫉妬したり。まだ少女だけど金魚なんで寿命は短いし。先生は、そんな金魚っ子に振り回されているみたいに見えて、ちゃっかりしてる。でも、本当はわかっている。自分は長く生き過ぎた。もう書くものがない。駄文を書いてかっての名声も地に落ちた。みんな若くして自殺して、きれいなまま歴史になった。その象徴として登場するのが芥川龍之介(高良健吾が演じる。実にうまい。笑えるくらいにイメージとしての芥川の姿をトレースしている)だ。もちろん彼の苦悩を描くのではない。男前でカッコよく生きて死んだ男として犀星の前に立ちはだかる。もう書くものがなくなった作家は金魚と老作家なんていうバカバカしい恋を書く。
何をするでもなく、毎日、ふらふらしているそんな彼の日常を淡々と見せていくだけの映画だ。なのにその緩やかなテンポに乗っかって、このどうでもいい映画は快調である。金魚の死までを描き、でも、そこには何の悲哀もない。恋することの幸せをこんなにも、恋から遠くにいそうな老人を通して描く。ラストで延々と続くふたりのダンスを見せるのもいい。終わらない時間。幸福のあるべき姿。愛おしいものとして描かれる。やはり、これは石井監督らしい過激で激しい映画だ。