もう20年間も桃園会の芝居を1本も欠かすことなく見ているのか、と改めて思う。パンフのはたもとさんの文章を読んでそのことを知った。
僕にとって深津さんの芝居を見ることは、もちろんそれは桃園会の芝居を見ることとも重なるが、それは他の何物にも代え難いものだったのだ、と気づく。もちろん、それは結果論であって、普段はそんなことは一切考えない。でも、また、桃園会の公演がある、ただそれだけでうれしい。
今回は深津さんの書き下ろし短編を含む連作長編である。3話からなる短編集ではなく、1本の作品として構成されてある。そこには無理して接いだような違和感はない。3本は、とてもまっすぐに繋がっていく。別々の演出家による作品を深津さんが総合演出してまとめあげた。これは小さな夢の連鎖である。そういう意味では黒澤明の晩年の作品『夢』に似ている。だが、深津さんは黒澤のように男性的な作家ではないから、あんな骨太な作品にはしない。同じように夢を題材にした短編連作なのに、当然のように肌触りが違う。深津さんはどちらかというと成瀬巳喜男に近い。庶民派なのだ。成瀬の傑作『驟雨』は岸田國土が原作だった。もちろん、深津さんは何度となく岸田戯曲を取り上げてきた。
見終えたときの、至福。90分という端正な上演時間。ひとつひとつの作品が独立しながら、続いていく心地よさ。私(橋本健司)とネコ(阪田愛子)がすべての作品を縦断する。深津さんと共に、演出を担当した筒井潤(dracom)、空ノ驛舎(空の驛舎)は深津さんが信頼する作家、演出家で、深津さんの意図を十分に汲んだ上で、自分らしい作品に仕上げる資質を持つ。その意外性も含めて作品は結果的に確かに桃園会のものとなる。
彼らは遠慮して自分を抑えるのではない。そんなことを深津さんは期待していないし、そういうことを忌み嫌う。彼らに託したのは、彼らの持つ才能を高く評価しているからだ。自分の世界を彼らならきちんと表現できる。もちろん2人は期待に応える。ふだんはあんなに不真面目に見える芝居を作っている筒井さんがこんなにも生真面目な作品を作る。もちろんそれは驚きではない。当然の選択だ。(もちろん彼は、今まで一度も「不真面目」な芝居を作ったことはない。)
このなんとも言い難い、甘く切ない気分。決して幸せな出来事を描くわけではない。テーマとなるのは今回もまた、阪神大震災だ。だが、それがテーマではなく、あくまでも題材としただけ。あの時の想いは生涯忘れない。すべてを失うのではないか、という恐怖は神戸ではなく、大阪で暮す僕たちも等しく感じたことだ。当事者となった人たちにとって、20年が過ぎようが、100年経とうが、過去にはならない。
やさしい視線。それが作品全体を貫く。彼岸から深津さんがこちらにいる彼らを見つめている。1995年、1月17日。亡くなった人たち、生き残った人たち。『カラカラ』を作った時から、ずっと変わらない。いつまでも続く日常と、消えてしまった平穏。無常に(無情に!)時は過ぎていく。あの日を境にすべてが変わった。3つのお話はそのことを悔いているのではない。静かに受け止める。病室から向かいのアパートの住人たちを見守る「覚めてる間は夢を見ない」を中心に据えて、(なんと深津演出によるこの作品を、文字通り作品の中心となる2話目に持ってきた)3つの夢のようなお話が絡み合い、ひだまりのような作品が生まれた。もうこれ以上は何も言うまい。ぜひ、自分の目で見て欲しい。
僕にとって深津さんの芝居を見ることは、もちろんそれは桃園会の芝居を見ることとも重なるが、それは他の何物にも代え難いものだったのだ、と気づく。もちろん、それは結果論であって、普段はそんなことは一切考えない。でも、また、桃園会の公演がある、ただそれだけでうれしい。
今回は深津さんの書き下ろし短編を含む連作長編である。3話からなる短編集ではなく、1本の作品として構成されてある。そこには無理して接いだような違和感はない。3本は、とてもまっすぐに繋がっていく。別々の演出家による作品を深津さんが総合演出してまとめあげた。これは小さな夢の連鎖である。そういう意味では黒澤明の晩年の作品『夢』に似ている。だが、深津さんは黒澤のように男性的な作家ではないから、あんな骨太な作品にはしない。同じように夢を題材にした短編連作なのに、当然のように肌触りが違う。深津さんはどちらかというと成瀬巳喜男に近い。庶民派なのだ。成瀬の傑作『驟雨』は岸田國土が原作だった。もちろん、深津さんは何度となく岸田戯曲を取り上げてきた。
見終えたときの、至福。90分という端正な上演時間。ひとつひとつの作品が独立しながら、続いていく心地よさ。私(橋本健司)とネコ(阪田愛子)がすべての作品を縦断する。深津さんと共に、演出を担当した筒井潤(dracom)、空ノ驛舎(空の驛舎)は深津さんが信頼する作家、演出家で、深津さんの意図を十分に汲んだ上で、自分らしい作品に仕上げる資質を持つ。その意外性も含めて作品は結果的に確かに桃園会のものとなる。
彼らは遠慮して自分を抑えるのではない。そんなことを深津さんは期待していないし、そういうことを忌み嫌う。彼らに託したのは、彼らの持つ才能を高く評価しているからだ。自分の世界を彼らならきちんと表現できる。もちろん2人は期待に応える。ふだんはあんなに不真面目に見える芝居を作っている筒井さんがこんなにも生真面目な作品を作る。もちろんそれは驚きではない。当然の選択だ。(もちろん彼は、今まで一度も「不真面目」な芝居を作ったことはない。)
このなんとも言い難い、甘く切ない気分。決して幸せな出来事を描くわけではない。テーマとなるのは今回もまた、阪神大震災だ。だが、それがテーマではなく、あくまでも題材としただけ。あの時の想いは生涯忘れない。すべてを失うのではないか、という恐怖は神戸ではなく、大阪で暮す僕たちも等しく感じたことだ。当事者となった人たちにとって、20年が過ぎようが、100年経とうが、過去にはならない。
やさしい視線。それが作品全体を貫く。彼岸から深津さんがこちらにいる彼らを見つめている。1995年、1月17日。亡くなった人たち、生き残った人たち。『カラカラ』を作った時から、ずっと変わらない。いつまでも続く日常と、消えてしまった平穏。無常に(無情に!)時は過ぎていく。あの日を境にすべてが変わった。3つのお話はそのことを悔いているのではない。静かに受け止める。病室から向かいのアパートの住人たちを見守る「覚めてる間は夢を見ない」を中心に据えて、(なんと深津演出によるこの作品を、文字通り作品の中心となる2話目に持ってきた)3つの夢のようなお話が絡み合い、ひだまりのような作品が生まれた。もうこれ以上は何も言うまい。ぜひ、自分の目で見て欲しい。