ようやくこの映画を見ることができた。劇場で公開されているときに見ようと思ったけど、ついつい新作のほかの映画を優先させているうちに公開が終了していた。オリジナルの『この世界の片隅で』はもちろんちゃんと劇場で見ている。すごくよかった。だからこの追加撮影された別バージョンである新作に対して、もうすでに一度見ている映画だから、という安心もあったのだろう。
予想した通り、あのすばらしい前作と同じ映画だった。1時間近く上映時間が伸びていくつものエピソードが追加されたにもかかわらず、映画はテンポよく流れていき、3時間があっという間のできごとだった。映画の印象は変わらないようで、なんだかまるで別の映画を見ているような新鮮さと驚きがあった。とうぜん前作を否定するような映画であるはずもない。こんなにも印象が変わってしまったにもかかわらずこれも当然お話は同じだ。そこに修正なんかがあると、これはすずさんの話ではなくなる。
すずとリンのエピソードが大幅に追加されて、リンと修作さんの関係がすずを苦しめる。映画の中心にこのふたりのエピソードを据えることで映画は大人のお話になってしまった。前作では無邪気でピュアな女の子だったはずのすずさんは、ちゃんとした大人の女性だったのだ、ということが描かれる。それは前作が見せないままだった真実で、この映画が別バージョンであるわけではないことを証明する。より進化した、というよりも深化。それは前作が故意に避けたわけではない。2時間では見えてこなかっただけの話だ。片渕監督はそこにこだわった。
このもうひとつの映画は、すずさんが生きた時間をさらに丁寧に見せただけで、基本は同じ映画だ。あの傑作と同じようにこの傑作も存在する。そして、もうないだろうけど、この映画の4時間版や10時間版があったとしてもおかしくはない。
すずさんたちがたどった時間が丁寧に描かれていく。楽しいことや嬉しいこと。もちろん辛いことや悲しいこと。生きていればいろんなことがある。それをすべて受け入れて今ここにいる。映画は10年ほどの時間が描かれるが、すずさんの時間はきっと70年80年と続いたはずだ。広島に原爆が落ちて、ふるさとは焼け野原と化した。呉に嫁いでいたすずさんは生き残った。そしてこの後広島で出会った戦災孤児と共に戦後の時間を生きた。失ったもの。手にしたもの。生きていることの意味。いろんなことが日常のスケッチの中から次ぎから次へと溢れてくる。こんな豊かな映画はなかなかない。だから何度も見てしまう人が続出するのだろう。
この映画を見た直後に見たから、あの映画(『太陽の子』)に不満を感じたのだろう。なんだかとても不自然に思えたのだ。この映画の自然さと較べる必要はないはずなのに、どこかで較べていた。どちらも誠実な映画だ。なのにその差は何なんだろうか。それは単純に作品の完成度の差ではないはずだ。
さらに今日片渕監督とこの映画を追ったドキュメンタリー映画を見た。『〈片隅〉たちと生きる 監督片渕須直の仕事』だ。とてもおもしろかった。この2本の映画を彼(ら)がどう作ろうとしたのか、それがしっかりと見えてくる。こちらも必見である。