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映画・演劇のレビュー

『マッドマックス 怒りのデスロード』 ②

2015-07-09 22:34:28 | 映画

満を持して見た公開初日の大スクリーンから、まだ2週間とちょっとしか経っていないのに、もう小さな劇場に鞍替えして、細々と上映されている。これだけのスケールの超大作なのに、思うようにはお客が入らない。今、映画はもう大衆の娯楽ではなくなったようだ。従来なら、これだけの凄い傑作なら、社会現象にもなったはず。30数年前のメル・ギブソンをスターダムの押し上げた3作はいずれも大ヒットした。今回は先の3作を遥かの超える作品であることに異論はあるまい。しかし、少ない客を集めるだけで、小さな劇場に押しやられている。

初めて見たときのあの違和感は何なんだろうか、とずっと気になっていた。少し居眠りをしてしまったのも、気になっていた。そこで、公開が終わる前に(というか、これは夏休み向けの大作だと思うのだが、まだ夏休みにはなってない)もう一度、ちゃんと見たくて劇場に行った。

記憶にないシーンが確かにたくさんあった。恥ずかしい話だ。だが、今回ちゃんと全部見て、やはり、同じ感想を持った。確かに凄い映画だ。だが、今の時代、この作品は熱狂的に受け入れられない。それは事実だ。映画が古いのではない。歴史に残るアクション映画の金字塔、というような批評もあながち過大広告だとは思わない。だが、ここには決定的な何かが足りない。

まず、ここにはヒーローが不在だ。主人公のマックス(トム・ハーディ)は、全編に登場しているにも関わらず影が薄い。もうひとりの主人公であるシャリーズ・セロンのほうが、存在感がある。だが、彼女ですら、決定的な刻印を残さない。激しいアクションの連続なのに、まるで存在感はない。それはこの映画に登場するマシーンが圧倒的で、カースタントばかりが目立つから、というわけでもない。誰もが自己主張しない。あんなにも異様な悪役のボスにしても同じだ。人間のいない世界。砂漠ばかりで、赤茶けた大地が続く何もない世界。核戦争後の荒涼とした大地にガソリンを求めて争う人たちの戦い。見慣れたマッドマックスの世界だ。こんなにも激しいアクションのつるべ撃ちなのに、なんだか静か。

初めて見たときの違和感はこの映画の諦念にあるようだ。何をしても虚しい。結局はもとの場所に戻ってくるだけ。緑の大地(理想郷)なんかない。悪を倒しても、快感はない。世界は変わらない。もしかしたら観客はこの映画に漂うそんな諦念を無意識に感じ取ってこの映画を避けたのかもしれない。そんなことすら思わせる。

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