習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』

2022-05-29 16:45:54 | 映画

2019年ベルリン映画祭のコンペに選ばれたにもかかわらず中国政府の検閲で引っ掛かり、なんと出品が取りやめになった(技術的な問題があり、取り下げたという説明があったらしいが、それってなんなんだか)といういわくつきの映画だ。巨匠チャン・イーモウの新作。彼は今も中国国内にとどまり、精力的に作品を作り続ける。北京オリンピックの開会式の演出を手掛け体制側の人間として、認識されているけど、政府の御用監督かというと必ずしもそうではない。国外に拠点を置くのではなく、ここで妥協することなく自分の映画を作る(ことは難しいだろうけど)。しかも近年には、ただの武侠アクションと思われた『影武者 シャドー』のようなしびれるような優れた映画を作っている。彼がどういう戦いを今回この映画を通して繰り広げたのか、そこにも興味を惹かれた。

今回文革期の物語に挑み、あの時代、映画が中国人にとってどれだけ貴重なものだったかを描く。だが、それは単純な映画愛ではない。これはほんの一瞬(1秒間)、娘が映っているという映画を見るためだけに強制収容所を抜け出し、砂漠を旅して、その映画を見ようとする男のお話だ。検閲の手が入り本来の形での公開ではないはずだ。だが、それでも(それだから)なんだか納得のいかない作品になっている。

まずフィルムを盗む少女がよくわからない。彼女は何がしたかったのか。主人公はなぜ、ここまで娘の映る1秒間にこだわるのか。彼女は既に死んでいるという設定に検閲が入り、カットされたらしいが、それだけではないのだろう。文革期の中国を描き、貧しさの中で唯一の娯楽が映画だった時代。プロパガンダのニュース映画と抱き合わせて上映される戦争メロドラマ。人々はそこに何を見たか。うらぶれた砂漠の町。何もない場所。そこにある公会堂で上映される映画に押し寄せるたくさんの人たち。彼らの唯一の娯楽はこの巡回上映でやってくる映画だ。もう何度となく見た作品だけど、それでも人々は楽しみにしている。

この映画には、心に沁みる光景がたくさんある。冒頭から何度となく描かれる壮大な砂漠のロケーションや、どこから集まったのかと思うくらいにたくさんの観客で溢れる映画館。昼間の灼熱の砂漠と夜になると真っ暗になる砂漠の町の対比。誰もいなくなった明かりの灯る映画が上映された公民館。丁寧に描かれる当時の風景の数々。それがただのノスタルジアではなく鮮明な映像として提示される。それなのに、核心となるこれを通してチャン・イーモウは何を伝えたかったのか、という大事な部分が空白なのだ。検閲でカットされたはずの部分を復元した完全版を見てみたい。

男がどうしてもこの映画に映り込んだ娘の一瞬の姿を何度となく見るという行為が意味するもの。それがこの映画にとって一番大事なところなのだが、残念だが、描きこまれていない。それに問題はそれだけではないと思う。もどかしい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 藤原七瀬『雷轟と猫』 | トップ | 『犬王』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。