1962年2月とカレンダーには出ている。水木しげる(宮藤官九郎)が、女房を貰い、2人が一緒に生活し始める。ふたりが徐々に心を通い合わせていくまでの時間が淡々と描かれていく。日常生活のスケッチである。だが、それが映画とは思えないくらいにゆっくりと描かれていく。こんなペースで話が進められると、何時間あっても何も語れないのではないか、と心配になるほどだ。最初の日、結婚式の後、姉と共にこの家に来て、いろんなことに驚く。夫は帰ってくるなり自分の仕事部屋に入って漫画を書く。困った彼女はとりあえず台所に立つ。だが、米櫃には何も入っていない。そんな場面から始まり、徐々にこの家に実情が見えてくる。慌てず、騒がず、静かに受け止める。どうしようもないからだ。そんな時間がただ、そのままに描かれていくばかりだ。特別なことなんか何もない。1年ほどの話だ。子どもが生まれ、講談社からの原稿依頼を引き受けるまでが描かれる。
布枝(吹石一恵)はお見合いから5日後に結婚し、東京に出てきた。29歳で、もうそろそろ結婚しなければならない。でも、これまで、ずっと家のため働いてきた。なのに、ある程度の年齢になるとまるで厄介払いのように追い出される。あの当時ならそんなことなんか当前のことだったのだろう。文句も言わずに結婚する。相手が10歳も年上で、左手がない。そんな男と、写真を見ただけで、何も知らないまま、嫁いでいく。
あの水木しげるだからこれは映画になったのだろう。しかもNHKの連続ドラマになり、大ヒットしたから、企画が通ったのだろう。それでなくては、とてもこんな地味な話が映画になるわけがない。鈴木卓爾監督の第2作である。前作『私は猫ストーカー』も実に地味な映画だった。だが、まだあれはマイナー映画だから、作ることも可能だったのだろう。今回はそれなりの大予算が必要な大作である。なのに、まるで企業に媚びない仕事をする。観客にすら媚びない。でも、独り善がりにはならない。とてもおもしろい映画になった。これは水木しげるの貧乏時代にスポットを当てた映画だ。原作がどこまでを描いているのかは知らないが、単純な成功話ではないだろう。まぁ、そんなこと鈴木監督には関係ない話だ。夫婦愛を感動的に歌い上げるのでも当然ない。内助の功とかも、関係ない。
これは日本がまだ貧しかった時代の、どこにでもあったお話だ。みんな貧しかったけど、必死に生きていた。そんな中で、彼らなりに幸せを捜していたはずだ。そんな時代が描かれてある。山崎貴監督の『ALWEYS 3丁目の夕日』も同じことを描いている。ただ、それを鈴木監督がやればこうなる、ということなのだ。どちらがいいとか、悪いとか、そんなことは関係ない。それぞれのやり方があり、見せ方があるということなのだ。
ここに出てくるひとりひとりがとても印象的だ。殊更何もしない。ただ、背景として映り込んだだけの人も含めてである。この貧乏な夫婦のもとにやってくるのだから、彼らも同じように貧乏だ。何もしてあげることはない。だが、一緒にいるだけで、少し元気になれる。貧しい食事を一緒に食べる。あるいは、ただ水を飲む。50円で買ってきた腐り始めたバナナが美味しい。あれはきっと2階に間借りしているカネナシさん(村上淳が好演! 「カネナシ」はどんな字を書くのか忘れたが、「金無」ではなかったのは確か)にも御裾分けしたことだろう。
心を寄り添わせる、ということを、甘く切なく描くことも出来た。だが、照れ屋の鈴木監督には(たぶん、水木しげるさんにも)それが出来ない。(というか、する気がない)ただ、一緒に自転車の二人乗りをするまでの軌跡が描かれる。それも、とてもさりげなく、である。そこがいい。主人公の2人はいつもふらふらと歩く。ちゃんと食べてないから、そうなるのか、と思うほどだ。でも、その足取りの危うさがこの映画の魅力だ。
この映画には、生きているもののすぐ横に、死んでいるものや、妖怪が自然に寄り添う。さらには昭和30年代の風景の中に、現代のマンションや、風景が顔を出す。それは予算の関係ではない。わざと、である。現代と地続きで、あの頃がある、ということなのだ。この夫婦の物語は、過去を懐かしむためにあるのではない。今、僕たちが生きていくために何が必要なのか、それを伝えるためにあるのだ。必見の傑作だ。とても暗いし、何もないけど。(考えてみたら、これは先日の『武士の家計簿』と同じことを描いているのである。まぁ、アプローチはまるで違うけど。)
布枝(吹石一恵)はお見合いから5日後に結婚し、東京に出てきた。29歳で、もうそろそろ結婚しなければならない。でも、これまで、ずっと家のため働いてきた。なのに、ある程度の年齢になるとまるで厄介払いのように追い出される。あの当時ならそんなことなんか当前のことだったのだろう。文句も言わずに結婚する。相手が10歳も年上で、左手がない。そんな男と、写真を見ただけで、何も知らないまま、嫁いでいく。
あの水木しげるだからこれは映画になったのだろう。しかもNHKの連続ドラマになり、大ヒットしたから、企画が通ったのだろう。それでなくては、とてもこんな地味な話が映画になるわけがない。鈴木卓爾監督の第2作である。前作『私は猫ストーカー』も実に地味な映画だった。だが、まだあれはマイナー映画だから、作ることも可能だったのだろう。今回はそれなりの大予算が必要な大作である。なのに、まるで企業に媚びない仕事をする。観客にすら媚びない。でも、独り善がりにはならない。とてもおもしろい映画になった。これは水木しげるの貧乏時代にスポットを当てた映画だ。原作がどこまでを描いているのかは知らないが、単純な成功話ではないだろう。まぁ、そんなこと鈴木監督には関係ない話だ。夫婦愛を感動的に歌い上げるのでも当然ない。内助の功とかも、関係ない。
これは日本がまだ貧しかった時代の、どこにでもあったお話だ。みんな貧しかったけど、必死に生きていた。そんな中で、彼らなりに幸せを捜していたはずだ。そんな時代が描かれてある。山崎貴監督の『ALWEYS 3丁目の夕日』も同じことを描いている。ただ、それを鈴木監督がやればこうなる、ということなのだ。どちらがいいとか、悪いとか、そんなことは関係ない。それぞれのやり方があり、見せ方があるということなのだ。
ここに出てくるひとりひとりがとても印象的だ。殊更何もしない。ただ、背景として映り込んだだけの人も含めてである。この貧乏な夫婦のもとにやってくるのだから、彼らも同じように貧乏だ。何もしてあげることはない。だが、一緒にいるだけで、少し元気になれる。貧しい食事を一緒に食べる。あるいは、ただ水を飲む。50円で買ってきた腐り始めたバナナが美味しい。あれはきっと2階に間借りしているカネナシさん(村上淳が好演! 「カネナシ」はどんな字を書くのか忘れたが、「金無」ではなかったのは確か)にも御裾分けしたことだろう。
心を寄り添わせる、ということを、甘く切なく描くことも出来た。だが、照れ屋の鈴木監督には(たぶん、水木しげるさんにも)それが出来ない。(というか、する気がない)ただ、一緒に自転車の二人乗りをするまでの軌跡が描かれる。それも、とてもさりげなく、である。そこがいい。主人公の2人はいつもふらふらと歩く。ちゃんと食べてないから、そうなるのか、と思うほどだ。でも、その足取りの危うさがこの映画の魅力だ。
この映画には、生きているもののすぐ横に、死んでいるものや、妖怪が自然に寄り添う。さらには昭和30年代の風景の中に、現代のマンションや、風景が顔を出す。それは予算の関係ではない。わざと、である。現代と地続きで、あの頃がある、ということなのだ。この夫婦の物語は、過去を懐かしむためにあるのではない。今、僕たちが生きていくために何が必要なのか、それを伝えるためにあるのだ。必見の傑作だ。とても暗いし、何もないけど。(考えてみたら、これは先日の『武士の家計簿』と同じことを描いているのである。まぁ、アプローチはまるで違うけど。)