習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

関西芸術座『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』

2010-09-17 23:36:03 | 映画
 1945年8月6日の早朝、学校を抜け出そうとする2人の女学生の描写に始まり、後半は原爆投下後の地獄を描く。そして最後は、彼女たちが再び業務に就くまで。終戦前夜の1943年、広島電鉄が、女子学生によるチンチン電車の車掌や運転士を育成するために家政学校を開校したという事実を背景にして、そこで学び、働く少女たちが、いかにこの特殊な状況下で生きたのかが描かれる。「その日」を中心にして、その後3日間のドラマに凝縮させる。先行する劇団往来作品との競作となったが、同じ題材なのにアプローチがまるで違うから比較にはならない。

 ここに描かれるひとつの事実を、ただのメッセージとするのではなく、彼女たちが体験したひとつの風景としてみせようとするのがいい。ただし、ひとりひとりの女の子たちを際だたせるのではなく、ある種のステレオタイプに押し込めてしまったのは、仕方ないこととはいえ残念だ。たった6人の女の子なのに、そのひとりひとりがあまりにパターン化されすぎる。誰でもない彼女たち自身の顔が見えてこないのはもったいない。

 ある状況にあって、その中で生きた女の子たちを、この6人を含む300名の家政女学校で学び働いたすべての人たちの象徴として描いていく。作品はそれによって、ある種の普遍性を提示しようとする。それは被爆後の描写に顕著だ。たくさんの被災者達の姿は、特別な誰かではなく、あの日広島で生きていた全ての人たちの姿である。これはあの時のあの時間を共有することとなったすべての人たちの物語なのだ。だから、この見せ方でいいのかもしれない。だが、なんとももどかしい。

 そして、その結果作品自体も、まるで教科書のようなものになった気がする。ひとりひとりの痛みがリアルなものではなく、誰の中にもあった「痛み」として描かれてある。この普遍性がドラマの衝撃を緩めたことは否めない。

 原爆投下から3日後、被災地に、彼女たちの手で電車が走る。広島電鉄が運転を再開したのだ。彼女たちを希望の光として描くラストは爽やかで感動的だ。描きたかったものが、こんなにも明確な芝居は、ありそうで実はなかなかない。そういう意味でこれは立派だ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 宴劇会 なかツぎ『きっと多... | トップ | 小路幸也『僕は長い昼と長い... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。