こういう純粋ラブストーリーには、最近とんとお目にかからない。というか、ここまで何もない話で1本の映画を作るなんて普通ないからだ。どんな映画にも自分なりの使命感があり、何かを訴えかけるために作られる。だが、この作品にはそんなテーマのようなものが一切ない。「純粋」というのは褒め言葉ではなく、ただもう呆れているのだ。お話に奥行きがまるでない。それだけではない。2人がどうして恋に落ちたのかもわからない。再会して、その次の瞬間には一緒に暮らしている。ちょっと目を疑う。10分くらいフイルムが飛んだのかと思った。でも、ビデオだし、映写トラブルなんてないはずだ。わざとそういう作り方をしているのだろう。でも、その意図がまるで見えない。
お互いの心がどんなふうにして寄り添っていくのかを見せないまま、恋人同士だと、言われても戸惑うしかない。大事な部分を敢えて端折るのならそれなりの理由を示してもらいたい。だが、それもない。生きることに疲れた男と、孤独の中でひとりけなげに生きる女が出逢い、一緒に小さな愛を育てる、というコンセプトはオーソドックスだが、悪くはない。
係累のいない女(松下奈緒)は、寂しい心を誰かに慰めてもらうのではなく、たった一人で生きることで力強く立っているはずだった。友だちもいない。恋人もいない。カメラだけが心の支えで、でも、誰からも認められず、ひっそりと水溜りの写真を撮り続けていた。男(阿部寛)は、エロ本の編集者で、親友の妻と不倫している。何かで失敗をして、人生を諦めてしまったようだ。そのへんの事情は一切描かれてない。元々は有能な雑誌編集者だったようだ。そんな二人が、出逢い、恋をする。だが、彼女は末期のがんで、もう手の施しようもない。残された日々を2人で過ごす。
別にこの話にいちゃもんをつけるつもりはない。これで納得のいく映画にしてくれたなら、恋愛映画の王道を行くものとして、認めるし、感動も出来ただろう。だが、ここには何もない。せめて2人がお互いをどう思い、どんなふうにして愛し合うのか、それだけでも伝わらなくては映画にならない。ただ、それらしい描写を用意しても心は伝わらない。
「アジアンタムブルー」とは、作中の説明では、観葉植物のアジアンタムが 水不足で葉がちりちりになってしまい、その状態がみるみるうちに葉全体に広がって しまう現象のことらしい。作者の大崎善生は、この現象を根底にして、ドラマを編んだのだろうが、藤田明二監督は、原作の雰囲気を映画に移行するにとどめる。さらっと流れるような映画にして、それだけでいいと思ったのか。切ない映画を期待したのに、ムードだけではがっかりだ。せっかくの二ースロケも、美しい風景だけで、二人の愛の深まりは描けない。どうしてこんな風にしたのだろうか。謎だ。
お互いの心がどんなふうにして寄り添っていくのかを見せないまま、恋人同士だと、言われても戸惑うしかない。大事な部分を敢えて端折るのならそれなりの理由を示してもらいたい。だが、それもない。生きることに疲れた男と、孤独の中でひとりけなげに生きる女が出逢い、一緒に小さな愛を育てる、というコンセプトはオーソドックスだが、悪くはない。
係累のいない女(松下奈緒)は、寂しい心を誰かに慰めてもらうのではなく、たった一人で生きることで力強く立っているはずだった。友だちもいない。恋人もいない。カメラだけが心の支えで、でも、誰からも認められず、ひっそりと水溜りの写真を撮り続けていた。男(阿部寛)は、エロ本の編集者で、親友の妻と不倫している。何かで失敗をして、人生を諦めてしまったようだ。そのへんの事情は一切描かれてない。元々は有能な雑誌編集者だったようだ。そんな二人が、出逢い、恋をする。だが、彼女は末期のがんで、もう手の施しようもない。残された日々を2人で過ごす。
別にこの話にいちゃもんをつけるつもりはない。これで納得のいく映画にしてくれたなら、恋愛映画の王道を行くものとして、認めるし、感動も出来ただろう。だが、ここには何もない。せめて2人がお互いをどう思い、どんなふうにして愛し合うのか、それだけでも伝わらなくては映画にならない。ただ、それらしい描写を用意しても心は伝わらない。
「アジアンタムブルー」とは、作中の説明では、観葉植物のアジアンタムが 水不足で葉がちりちりになってしまい、その状態がみるみるうちに葉全体に広がって しまう現象のことらしい。作者の大崎善生は、この現象を根底にして、ドラマを編んだのだろうが、藤田明二監督は、原作の雰囲気を映画に移行するにとどめる。さらっと流れるような映画にして、それだけでいいと思ったのか。切ない映画を期待したのに、ムードだけではがっかりだ。せっかくの二ースロケも、美しい風景だけで、二人の愛の深まりは描けない。どうしてこんな風にしたのだろうか。謎だ。