原作通りに映画化しているにも関わらずオリジナルのテイストが全く生かされていない。何も起こらないのに、この町では戦争が既に起きており、自分もまたそこに巻き込まれている。平穏な日々の繰り返しだが、どこかで戦死者が出ている。公報には事故死者と並んで戦死者の欄がある。
香西さん(原田知世)という役所の女性が窓口になり、自分(江口洋介)もまた召集され、実感もないまま戦争に参加していく。
映画と小説の違いがこんなにも明確に出るなんて思いもしなかった。リアルというものが、この微妙な話の中で、生じるためには、何一つ変わりないありきたりで、当たり前な毎日が続いていることの実感が描かれてないことには成立しない。だが、この映画は彼の周りを奇妙な人物で固めてしまう。彼らの行動の不自然さがすべてを駄目にしていく。こんなのは嘘っぱちではないか、と映画自体が全身で表現するから見ていてバカらしくなってしまうのだ。主人公の江口洋介もミスキャストだ。彼では平凡なサラリーマンには見えない。そのキャラクターがあまりに嘘っぽすぎる。監督が、清順門下生の渡辺謙作(『ラブドガン』はよかったのに)と聞いた時からかなり不安だったが、嫌な予感は見事に的中。
不思議な世界の出来事として映画全体を処理してしまうと、このお話の怖さは、ただのバカ話になる。いくらトーンを落として、何もない日常の中での出来事を装っても無理だ。空間自体をキッチュなものにしているから、せっかくのロケーションも生きない。失敗するんは当然なのに、どしてこんな作り方をしてしまったのか、よくわからない。
しかもクライマックスの地下道によるとなり町からの脱出シーンでも、戦場カメラマン、救助に来た自軍の兵士、敵の傭兵、という3人のキャラクターを思いきりメリハリつけてカリカチュアしたりするから、ますますしらけてしまう。3人とも知り合いだなんて、そんな狭い世界ってありなのか?
さらには、ラストの電車のシーンなんて噴飯ものだ。リアルの実感は彼女への想いにしかなく、しかし、その愛ですら幻でしかない、ということを描くはずなのに、なんですか?あの陳腐な終わり方は。そこだけオリジナルから改変するのもなんだかなぁ、と思う。
あんなにも面白い小説だったのに、無残としか言いようがない。2人が抱き合ったところに宣戦布告のアドバルーンが揚がったって、何も怖くはない。
香西さん(原田知世)という役所の女性が窓口になり、自分(江口洋介)もまた召集され、実感もないまま戦争に参加していく。
映画と小説の違いがこんなにも明確に出るなんて思いもしなかった。リアルというものが、この微妙な話の中で、生じるためには、何一つ変わりないありきたりで、当たり前な毎日が続いていることの実感が描かれてないことには成立しない。だが、この映画は彼の周りを奇妙な人物で固めてしまう。彼らの行動の不自然さがすべてを駄目にしていく。こんなのは嘘っぱちではないか、と映画自体が全身で表現するから見ていてバカらしくなってしまうのだ。主人公の江口洋介もミスキャストだ。彼では平凡なサラリーマンには見えない。そのキャラクターがあまりに嘘っぽすぎる。監督が、清順門下生の渡辺謙作(『ラブドガン』はよかったのに)と聞いた時からかなり不安だったが、嫌な予感は見事に的中。
不思議な世界の出来事として映画全体を処理してしまうと、このお話の怖さは、ただのバカ話になる。いくらトーンを落として、何もない日常の中での出来事を装っても無理だ。空間自体をキッチュなものにしているから、せっかくのロケーションも生きない。失敗するんは当然なのに、どしてこんな作り方をしてしまったのか、よくわからない。
しかもクライマックスの地下道によるとなり町からの脱出シーンでも、戦場カメラマン、救助に来た自軍の兵士、敵の傭兵、という3人のキャラクターを思いきりメリハリつけてカリカチュアしたりするから、ますますしらけてしまう。3人とも知り合いだなんて、そんな狭い世界ってありなのか?
さらには、ラストの電車のシーンなんて噴飯ものだ。リアルの実感は彼女への想いにしかなく、しかし、その愛ですら幻でしかない、ということを描くはずなのに、なんですか?あの陳腐な終わり方は。そこだけオリジナルから改変するのもなんだかなぁ、と思う。
あんなにも面白い小説だったのに、無残としか言いようがない。2人が抱き合ったところに宣戦布告のアドバルーンが揚がったって、何も怖くはない。